幸せは「なる」ものではなく“感じる”もの
私は旅行が好きで、コロナ禍(か)でも時間を見つけては出かけていました。
多くの人が外出を自粛していた時期だったので、普段は予約が取れないような九州の観光列車の先頭に座って、風光明媚(ふうこうめいび)な九州の景色を楽しみました。
鉄道ファンの人たちが、三脚を立てて熱心に撮影している場面にもたびたび遭遇しました。
そのなかに、65歳くらいの男性がいるのを見つけました。彼の幸せそうな様子を見て、私の想像が膨らみました。彼は、世界をまたにかけるビジネスマンだったかもしれません。
でも、定年退職後は、三脚をかついで好きな電車の写真を撮る日々です。
「あの頃、忙しくてできなかったことが、今はできる」と、定年後の自由さに輝きを感じているように見えました。
ところが、もしも彼が二分割思考(物事を白か黒かにハッキリ分けて考えてしまう極端な考え方)の持ち主だったとしたら、人生の見え方はまるで違ってきます。二分割思考に陥ると、「社会的地位を失い、鉄道を追いかけるしか、やることがなくなった」と自分を貶(おとし)めるような感覚が湧いてくるからです。
くり返しになりますが、物事には必ず、よい面と悪い面があります。ただし、それは絶対的なものではなく、主観的なものです。
自分でどう見るかによって、見え方はまるで違ってきます。
鉄道オタクになったことを、「なんと充実した毎日なんだ」と思えば幸せであり、「鉄オタになってしまった」と思えば不幸になります。
この「幸せ」という感覚も、主観的なものです。
「幸せになりたい」という人がよくいますが、幸せとは「なる」ものでも、誰かにしてもらうものでもなく、自分が“感じる”ものです。
今の自分を「幸せ」と思えば、仕事がなくても、お金がなくても、その瞬間から幸せになります。反対に、「不幸」と思えば、その瞬間から不幸です。
ちなみに、幸せか不幸かも二分割思考なので、成熟した思考をすれば「ときどき困ったこともあるけれど、だいたいが幸せ」となるのでしょう。