半年間は「バンス」で食べていた

日大の演劇サークルに入り、そこの先輩が自由劇場の演出部にいたことから笹野さんは裏方の手伝いに呼ばれ、演劇の世界に自然と出入りするようになる。

しかし時は70年安保の頃。盛んな学生運動に嫌気がさして、再び兄に紹介を頼み、今度は外国航路の船員に。

――そうなんですよ。船乗りにも憧れがあって。東南アジアを回る貨物船に乗っていました。1年半後にやっと世界一周航路の船に乗れることになって喜んでたら、たまたま自由劇場の串田和美さんにバッタリ会って、「また一緒に芝居しようよ」って言われた。「じゃあ今度は役者でなら」って、復帰ですよ。

だって、僕が裏方やってた時に佐藤B作はもう役者だったから。あの顔で役者だなんて、東京はすげえとこだな、と思って(笑)。やっと口に出して言えたんですから、僕の希望をね。この時が第2の転機です。

それで『上海バンスキング』の初演が79年。バクマツ役でちょっと脚光浴びて、新聞でも褒められたりなんかして、いい気になっちゃったのかな、俺は。

先に劇団を辞めた柄本明や佐藤B作がテレビにポツポツ出始めて細々とメシ食ってる。演劇のことを何も知らなかった俺が、ここで俳優としていろんなこと覚えて10年間。34歳になってたんで、劇団辞めたら少しはメシ食えるかもしれない、という気になった。

で、串田さん、吉田日出子さんにそう言ったら猛反対されたけど、僕には頑固なところがあってね。串田さんなんか怒ったなぁ、「お前~っ!!」って。それでも辞めて、前に知り合っていた財津一郎さんのいる事務所に移ったけど、半年間はまったく仕事がなかったですよ。どうやって食べてたかと言えば前借り。「バンス」ですよ。(笑)