秀吉は関東を「いなか」と断じていた?
氏郷の話は作り話かもしれませんが、古文書も残っているのは織田信長の重臣の滝川一益です。
武田家の討伐にいくさ奉行として大功を立てた一益は、信長から上野1国、信濃2郡、あわせて60万石の領地を賜りながら、旧知の上方の商人にグチを書き送っています。
“このたび私はそれなりの功績を挙げたので、信長さまに「小茄子」の茶器をおねだりしようと思っていた。ところが与えられたのは田舎の土地であった。ここでは炭は取れるが、茶道具などはない。「茶の湯のミョウガも尽き果てた」”(天正10年4月4日、滝川一益書状、畑柳平氏所蔵文書所収)。
田舎の広大な土地よりも、茶器が欲しかった。そう書いた一益のホンネがどういうものか、容易にはつかみかねますが、そうしたロジックがあり得たのです。
となると、上野を含む関東は「いなか」であると、秀吉は断じていたのかもしれません。
茶の湯も楽しめぬいなかなら、250万石でも構わん。家康どの、まあせいぜい新しい領地の治政、産業の振興、文化の育成に励んで下されや。
秀吉は意地悪く、そんな風に思っていたのかもしれませんね。
『「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。