「なんかこう、ふつふつと力が湧き上がる感じがして、やっぱり襲名したほうがいいのかな、という気になって」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第23回は文楽人形遣いの吉田玉男さん。玉男襲名を迷っていた時、妻の砂千子さんが背中を押してくれたと語ります。父親といた時間より長かったという、師匠への思いは――(撮影=岡本隆史)

<前編よりつづく

東は東、西は西

ここでふと思うのは、人形遣いの五代目吉田文吾さんとアメリカ人のイーデス・ハンソンさんが2年ほど結婚していたことがあって、その頃『青い目の嫁はん』(1964年、藤山寛美&イーデス・ハンソン主演)という映画が話題になった。

玉男さんの青春の1ページにもそれに似たロマンスがある。そのことが取材時に話題に出たが、書くことをためらっていたら、後日、「エリザベスが喜ぶから、嬉しい、と家内が言ってます」と玉男さんからメールが来た!

――文吾さんがまだ小玉を名乗っていた頃、流暢に大阪弁を話す外国人女性と結婚して、じきに別れはったという話は、僕の入門前のことです。やっぱり東は東、西は西ということでしょうかね。

自分の話は照れますが、僕が21歳の頃、東京の国立劇場の小劇場で、「高校生のための文楽教室」で、舞台に出て人形の解説をさせられたんです。そうしたら、劇場の下駄箱の僕の靴の中に、手紙が入ってて(笑)、全部平仮名で書いてありました。それでエリザベスと知り合って、師匠に言うと、「まぁ、ええやろ」ということで結婚して。

子供も2人授かりましたが、やはり言葉の壁とか無理なところがありましたからね、イギリス人やし。別れた後はずっと日本で英語を教えて暮らしてます。僕の東京公演の時に招待したり、元の家族と今の家内と仲良く会食したりしています。家内とは僕が51歳の時に結婚しましたから、独身の期間もかなりありました。

 

玉男夫人の砂千子さんはかつてフリーの雑誌編集者で、私に人間国宝特集号の十七代目中村勘三郎について書くように依頼してきたのも不思議な因縁。近頃は小唄の世界で活躍し、玉男さんもお弟子さんで、時折その「ダンナ芸」を披露するのもほほえましい。

――家内はうちの玉男師匠の追っかけで、あちこちの巡業先にもよく現れてました。そのうち僕と一緒になる報告を師匠にしたら、「何や、俺のこと好きで来てたんと違うんか」って、笑ってはりましたけどね。