2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「源義経の失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで――。
「奇襲戦」を軍事に持ち込んだ義経
源義経の失敗。なぜこの稀代の軍事的天才は、兄から追討を受けることになってしまったのでしょうか?
ご存じのように1185年、平家は壇ノ浦で滅びます。そのときに大きな働きを示したのが源義経であったことは言うまでもない。
源義経は「奇襲戦」を軍事に持ち込んだ人です。それまでは必ず、お互いに面と向かって「やあやあ、我こそは」と名乗りをあげて、正々堂々戦うことが普通だった。
武士たちも自分はこういうものである、ということをわざわざ名乗り、そうして「俺たちは命を懸けて戦うにふさわしい両者である」ということを理解し合ったうえで戦っていたのです。
しかし義経は、そんな名乗りなんて上げず、いきなり襲いかかる。そういう意味で言うとならずものの戦法というか、行儀の悪い戦法をあえて取り入れ、それで次から次へと戦いに勝利するわけです。
そうした義経ですが、彼が源氏にとって大変な功労者であることは間違いない。戦争のやり方を根本から変えてしまったという意味で言うと、武士社会の功労者でもあります。しかし、その彼がなぜ頼朝の怒りを買ってしまったのでしょうか。