政宗毒殺未遂事件
伊達政宗は天下統一を目指す豊臣秀吉から、頻繁に小田原参陣を促されていた。伊達家中には緊張が走り、秀吉の要求に応じるべきか否か検討を行っていた。評議の結果、政宗は4月6日に小田原に出立することを決意したのである。
出発前夜の4月5日、母の保春院から黒川城へ招かれた政宗は、別れを惜しんでともに食事をした。
ところが、政宗は「油いりのお菓子」か「膾(なます)」を食べ終えたところ、突如として気分が悪くなって吐き出した。一説によると、政宗の毒見役が食すると、たちまち吐血して絶命したともいわれている。
保春院は政宗の額に手を当てるなど介抱するが、この時点で政宗は母を疑っており、手を払いのけると屋代景頼(やしろかげより)と片倉景綱(かげつな)に背負われて帰城した。
戻った政宗は、医師の錦織即休斎が調合した「撥毒丸」を服用すると、その解毒作用の効き目によって快方に向かった。
この記述を見る限り、政宗は母によって、食事に毒を盛られたと考えるべきであろう。政宗は、この事態に対処せざるを得なくなった。
事件を通報した者によると、保春院は政宗を毒殺し、弟の小次郎を伊達家の当主に据えようと画策していたという。
保春院は政宗が秀吉のもとを訪れても、怒りの収まらない秀吉によって処刑されるだろうと考えた。政宗が処刑されると、伊達家の所領はすべて没収されてしまう。
こうした事態を未然に防ぐため、保春院は政宗に代えて小次郎を当主に擁立し、兄の最上義光(よしあき)を通じて秀吉に許しを請おうとしたのである。
一説によると、この政宗毒殺未遂事件は、保春院が義光からそそのかされて実行に及んだともいわれている。つまり、保春院は伊達家の取り潰しを避けるために、政宗暗殺計画を実行したのである。