「本当に、僕はつかさんと出会ってなかったら俳優になってなかったでしょうし、今ごろ何をしていたかもわかりませんからね」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第34回は俳優の平田満さん。愛知で三人きょうだいの末っ子に生まれた平田さん。早稲田大学入学後、ふらりと入った公演の片づけを手伝ったことから、演劇の道に入ることになったそうで――。

つかさんと出会ってなかったら

平田満という名前が広く知れ渡ったのは、1982年の映画『蒲田行進曲』で大部屋俳優ヤスを演じてからだと思われる。つかこうへい原作のこの映画は大ヒットし、平田さんは日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞など、数々の賞に輝いた。

平田さんについて語る時、あのユニークなつかさんとの関わりを抜きにすることは不可能なのに、私の観た平田さんの舞台は『泣き虫なまいき石川啄木』『ART』『こんにちは、母さん』『海をゆく者』などで、つか芝居がなんと、一本もないのだった。

――そうでしたか(笑)。本当に、僕はつかさんと出会ってなかったら俳優になってなかったでしょうし、今ごろ何をしていたかもわかりませんからね。

僕は愛知県豊橋市の農業と水産業というか、鰻の養殖とかをやってた家の、姉と兄のいる三人きょうだいの末っ子で、いつも兄貴の後ろに隠れているような子でした。勉強はちょっと出来たりしたんですが、このまま高校を卒業して何をすればいいのかわからなくて。

それで早稲田大学に入った、というそんな感じでした。親には申し訳ないけど、4年間は遊べるから、って。(笑)

地方から東京に出てくると、ヒッピーまがいの人たちがいっぱいいて。でも僕もその頃はこ~んな、肩まで髪があったんですよ。僕の場合、面倒で床屋さんに行かなかっただけの話ですけど。