竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

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「いや、急がなくて構いません」
 平左衛門が首を横に振った。
「どうぞ、先生のお心のままに話を進めてください。刻はたっぷりあります。慌てることも急くことも不要です。むしろ、じっくりとお聞かせ願いたいですな。だろ、甲三郎」
「へえ」
 甲三郎はやけに素直に頷いた。
「知れるものなら、詳しく知りてえと思いやす」
「でも、あたし一己の話ですよ。治兵衛の件とも吉原とも関わってくるものじゃありません。そんなもの聞いたって、何の益にもなりゃしませんよ」
「益になるかならないかは……」
 平左衛門は湯呑をくるりと回した。
「こちらで判じさせていただきます。先生は、いらぬ気を遣わなくて結構ですよ」
 おゑんは眉を強く寄せた。
「要するに、あれこれ考えず洗いざらいしゃべれと、そう命じておられるのですね」
「心のままにおしゃべりくださいと申し上げたのです。何であれ先生に命じられるほど大層な立場にはおりませんよ」
 平左衛門がさらりと言う。
 どの口が言うのやらと、竦めそうになった肩を何とか抑える。
 いいともさ。聞きたいなら聞かせてやる。あたしを丸裸にしたって、目ぼしいお宝なんてただの一つも出てきやしないけどね。
「それにしても、初めてのお産の手当てをされたのが母上さまとは。いかにも先生らしい逸話ですな」
「そうですか」
「そうですよ。巷に溢れた凡百の語りとは違う。耳を傾けるに値するお話です。ですので、どうか続けてください。母上さまとのことは、先生が医者として生きる上での礎ともなったわけですか」
 平左衛門が穏やかな物言いで、先を促す。その後ろで、甲三郎は口を真一文字に結び、おゑんを見詰めていた。

 そうですねえ……。礎とは少し違うかもしれません。
 あたしはね、憤っていたんですよ。何にか、誰にかはっきりわからぬまま、髪の毛が逆立つほどの怒りを覚えていました。
 いやきっと、あらゆるものに憤っていたのでしょう。
 己の生命も赤子の生命も諦めてしまった母にも、母も弟も救えなかった自分にも、命懸けで子を産まねばならない女の宿命にも、己の生命を担保することなく親となれる男たちにも……憤っていたのです。
 だから、殺したくないと思いました。
 生命を生み出しながら、己の生命を削るような真似を女たちに課したくないと思ったのです。あのときの憤りはまだ胸の底にあります。けれど、現は厳しくて、あたしはたくさんの女たちを見送ってきました。ええ、救い切れなかったんです。
 昔も今もね。
 そうやって、あたしは憤怒の情を抱えながら大きくなっていったんですよ。些か性根が歪なのはそのせいでしょうかねえ。
 ただ、医道を知ることは喜びでした。医者として道を究めれば、この憤りを消し去れると信じていましたからね。ふふ、そうなんです。あたしはあたしの情動を持て余してはいたんですよね。
 さて、光陵の話をいたしましょうか。
 そうしないと、越冬虫との絡みが見えてきませんからね。ええ、そうです。これから話す日野光陵という男が、今回の件に関わっていると、あたしは考えているのですよ。
 日野光陵は龍堂の弟の子、つまり甥っ子になります。弟夫婦が揃って早世したので、龍堂が引き取ったのです。あたしのときもそうですが、龍堂は確かに金に執着し、出世を望む俗な面もありましたが、行き場のない子を放っておけない慈悲深い一面もあったのです。もっとも、それは自分と関わりのある子に限られてはいましたが。
 龍堂には二人の息子がいました。二人とも正妻の子です。光陵……そのころは、杉丸(すぎまる)と呼ばれていましたかね。あたしより二つ、三つ年上でした。
 ええ、たまに……というより、ちょいと多く顔を合わせていましたよ。杉丸も医の道を目指しておりましたから、龍堂の許で共に学んだり、伊野屋さんにお邪魔して、調合の真似事をさせてもらったり……わりと一緒にいましたかねえ。
 え? どんな男だったのか……そうですね、一言でいえば真っ直ぐで、優しい気性でしたかねえ。ふふ、意外ですか。もっと邪悪で剣呑な者を想像していましたか。でも、あたしが知っている限り、杉丸は真っ直ぐで優しいとしかいいようのない性質だったんですよ。そうですねえ、一つ、小さな出来事をお話ししましょうか。
 あれはいつだったか……子猫を拾ったことがあります。白黒の斑(ぶち)と茶の縞模様の二匹の子猫が、捨てられたのか親と逸(はぐ)れたのかわかりませんが、天水桶の陰でみぃみぃ鳴いてたんですよ。確か、伊野屋さんで丸薬の作り方を教わった帰りだったはずです。わたしは米沢町、杉丸は龍堂の屋敷で暮らしておりましたから、たぶん、米沢町の商家の軒先だったのでしょうね。だいぶ弱っていたようで、二匹寄り添って鳴くばかりで動こうとはしませんでした。そのあたりの記憶は、わりにはっきりしています。白黒の尻尾が曲がって、半分ほどの長さしかなかったことも覚えています。どうでもいいことですが。
 あたしは正直、生き物は苦手でね。生き物というより、生き物を飼うってことが嫌いなんですよ。人に馴れた生き物が嫌いなのかもしれません。
 それでも、鳴くしかできない小さな猫を哀れとは感じておりましたが、手を差し出すことを躊躇いもしていたのです。
 杉丸には、そんな躊躇いはなかったようで、すぐに子猫たちを抱き上げて一匹を懐に入れ、もう一匹、白黒の短い尻尾の方ですがそれをあたしに差し出しました。
「こっちは、おゑんが飼ってやれ」
「え、嫌だ」
「なぜだ?」
「生き物を飼うのは好きではない。二匹とも杉丸が飼えばいいではありませんか」
 そんなやりとりをしたのも覚えにあります。ただ、杉丸も日野家に養子として入った身です。肩身が狭かったのでしょうか。捨て猫を二匹も飼うのに遠慮があったのかもしれません。あたしに両手を合わせ、頼む頼むと頭を下げるのです。根負けして、あたしは白黒を引き取りましたよ。もっとも、猫を拾ったことを末音は殊の外喜びました。台所に鼠が出るようになって往生していたのだそうです。白黒はそこそこ長生きをして、たんと鼠を捕って、最期は鴉(からす)との喧嘩に敗れて死にました。
 縞の方は屋敷に連れ帰られて暫くは生きていたようです。
 ええ、優しいでしょう。
 路端で鳴く小さな猫を、杉丸は見て見ぬ振りをすることも、そのまま捨てておくこともできなかったのです。
 そういうことは、他にもありました。
 目の前で子どもが転ぶと駆け寄って抱き起こしてやるとか、年寄りの荷物を持ってやるとか、お菰さんに幾許かの銭を与えるとか、そういう、いわゆる善行をごく当たり前にできる者でした。だから好かれていましたよ。龍堂の正妻にも、屋敷の奉公人にも、評判は良かったです。ええ、不愛想なあたしなんかより、ずっとね。

「なるほど。人の好い、立派な少年か」
 平左衛門がなぜか口元を緩めた。
「けれど、それだけのはずがない。杉丸が光陵となるまでに、何がありました。どう変わったのか、あるいは、隠していた地を露にしたのか。どっちです。先生」
 おゑんも微かに笑む。
 小女が新しい茶を運んできた。
 障子の向こう、小さな庭には夕暮れの気配が漂っている。

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