「墓を発く」が『中央公論』に掲載される
札幌で執筆していた作品のなかで一番の大作は「墓を発(あば)く」である。宇野千代はこの原稿の草稿が仕上がると、『中央公論』の編集長滝田樗陰に宛てて送った。ところが、返信がなかったため、痺れを切らして、大正11年4月に単身で東京の中央公論社に向かった。この時に千代の夫である藤村忠は駅まで見送りに来た。のちに千代は「旦那様、停車場迄まで送って来て、とても泣けたわ、泣いて泣いてぐしょぐしょに泣き濡れて、涙であの人の顔が見えなくなる程泣いたの」と回想している(『話』1937年5月号)。
中央公論社に着いて滝田に事情を尋ねると、「墓を発く」がすでに掲載された『中央公論』を見せられて、原稿料366円を手渡された。この流れは千代の私小説では何度となく描かれているが、実際には千代と滝田の間で何度か草稿についてやり取りがあったと思われる。日本近代文学館が所蔵する「墓を発く」の原稿(千代は122枚と言うが、現存する原稿からは93枚であったことがわかる)には、滝田の赤字と思われるものが入っており、最終頁の裏には「札幌区北一条東二丁目十二番地、府下西巣鴨町宮仲二四六六藤村亮弌方」と東京の住所(従兄藤村亮一名義の家)があり、千代がすでに東京での執筆活動を決意していたことがわかる。
滝田は燕楽軒の千代を記憶していたに違いない。作家の室生犀星は「滝田樗陰が私の家に来て原稿要談の後に本郷のえんらく軒という西洋料理店に、藤村千代という女性が勤めているが、話してみると小説が書けるらしく、今夜も飯を食いに行くが書けたら書かして見る心算だ」と滝田が話したことを書き残している(室生犀星「黄金の針」〔『婦人公論』1960年8月号〕)。
千代は燕楽軒を辞めた後も、滝田宛てに手紙や原稿を送り続けていた可能性が考えられる。千代は滝田から「野上彌生子を手本にしてお書きなさい」と、くり返しアドバイスされたという(宇野千代『或るとき突然』)。そのため、千代は晩年まで野上を尊敬し、「野上先生」と一目置いた。
千代は大金の原稿料を手にすると、郷里の岩国に向かった。故郷に錦を飾る思いであっただろう。電話で知らせを受けた5人の弟妹が岩国駅で出迎えた。いつもなら家まで徒歩で帰宅するが、人力車を連ねて走らせた。千代が川西の家に戻るのは6年振りであった。継母リュウに会うと、これまでのいきさつを話し、大金の一部を手渡した。リュウは「まあ、こんとうに貰うても、ええかいの」といって泣いた(宇野千代『生きて行く私』上)。
川下村の祖母の家にも行って、ここでも大金の一部を手渡した。そこから帰る道で、偶然にも代用教員のときに恋をした玉田精磨の姿を目にすることがあった。もはや玉田には妻も子供もあり、遠い過去の存在であることを痛感した。千代が岩国に滞在したのは2日間で、北海道に戻る切符を買った。ところが、千代は滝田樗陰に御礼を言おうと、東京に寄り道をすることになる。
そして、そのまま西巣鴨の藤村亮弌方に身を寄せたようである。千代が札幌を出発して約2週間が経つと、忠から「アスヨル 八ジ ウエノツク」という電報が届いた。表向き、千代の様子を伺いに来たのではなく、銀行本店に用があって上京したのだという。忠が札幌に帰る際に千代は電車の停留所まで行き「さよなら」と告げると、忠は「ここで帰るの?」と聞き返すように言った(宇野千代「自伝的恋愛論」)。千代は、忠も何かを感じて、それ以上言わなかったのではないかと振り返る。
札幌で涙を流して忠との別れを惜しんでから1月もすると、千代の感情は思わぬ変化を見せる。この点に関して千代は「それなのに、一ト月位したらもう悪い事しちゃってねえ」と反省している(前掲『話』)。札幌に戻るよりも、東京で執筆活動をする方が自分には適していると感じたのだろう。夫を札幌に残し、自分のやりたい行動を選んでしまった。そのことが「悪い事しちゃってねえ」という言葉の意味である。