ヤマザキさんの曽祖父一家。1939年頃
コロナ禍でイタリアに戻れなくなり、時間さえあれば昔の映画を見ているというヤマザキさん。戦前戦後の邦画を通じて、母が若かった時代の社会がどれだけ女性にとって閉ざされたものだったのかを実感し考えたことは――(文・写真=ヤマザキマリ)

《片付けられる》女

戦時中に思春期を迎えた私の母は、両親が花嫁修業として習わせたヴァイオリンにのめり込み、最終的に楽器をヴィオラに持ち替えて、プロとして生きていくことを決めた。学校を出た後、父親に紹介された会計事務所で働きながらも、時々親には内緒でシャンソン歌手のバックで伴奏をするなどアルバイト程度の演奏活動を続けていたが、1960年、設立されたばかりの札幌交響楽団の募集を見て、家族の大反対を押し切り、縁もゆかりもない北海道へと飛び出した。

そんな女を母親に持った私が14歳で欧州を一人旅したり、17歳でイタリアに留学をしたとしても、それは十分に考えうる顚末なのである。

戦争が終わってまだ十数年しか経っていないあの時代に、結婚にすがらず、音楽という表現を生業(なりわい)としてひとりで生きていくことにした彼女の決意は凄まじいものだったはずだが、母は自分の過去について語る時、聞き手の好奇心を刺激するような内容を避ける傾向があった。ひとりで北海道まで楽器を抱えて飛び出してきた母のあの時の心境がいかなるものだったのか、私もそれほど深く理解できていたわけではないと思う。

というのも、コロナ禍でイタリアに戻れなくなった私は、ここ数ヵ月、時間さえあれば昔の映画ばかり観ているのだが、戦前戦後の邦画を通じて、母が若かった時代の社会がどれだけ女性にとって閉ざされたものだったのか、その実態を知って驚いている。

例えば、イタリア留学時代から観ている小津安二郎だが、今改めて観直すと、その作品の多くが女性の結婚問題を扱ったものであることに気付かされる。家族のあり方は小津作品の普遍的テーマだが、特に戦後になると、日本の経済復興のために社会で働く男たちの周辺には、かならず《片付けたい》対象の女性がいた。『秋日和』では、お年頃のひとりものの女性のみならず、亡き友の妻も男たちの《片付け》欲求をそそる対象となっている。