京の五条の橋の上
牛若丸、あるいは源義経の話からはじめたい。
義経は、源氏の軍勢をひきいて、勲功をあげた。敵の平家をおいおとした、いちばんの功労者である。だが、兄の源頼朝からはうとまれた。謀反の疑いも、かけられている。奥州の平泉までにげのびたが、最終的には自害を余儀なくされた。
悲劇の英雄だと言ってよい。また、そのような人物として、語りつがれてきた。じっさい、義経をテーマにした文芸作品は、数多く書かれている。劇作化も、たびたびなされてきた。牛若丸は、そんな武将の幼名である。
ただ、義経じしんは、牛若丸と言われたことが、たぶんない。古い文献がつたえる元服前の名前は、ただの牛若である。おさない男児を何々丸とよぶのは、室町時代からの習慣であった。平安末期を生きた義経に、丸のつく名前は、まずありえない。
江戸時代には、牛若丸という呼称が定着していた。そして、今回の文章は江戸期から今にいたるまでの義経像を、おいかけている。その幼名も、ここでは暫定的に、牛若丸としておく。
さて、源義経だが、その足跡は、ほんとうのところ、あまりよくわかっていない。とりわけ、牛若丸時代の経歴は謎につつまれている。だが、尾鰭(おひれ)のついた伝説は、たくさんある。
なかでも、よく知られているのは武蔵坊弁慶とであうところであろう。弁慶は、のちに義経の忠実な家来となった。生涯つきしたがい、つくしたことになっている。その弁慶と牛若丸は、最初に京都の五条橋で遭遇したという。実話ではない。ただ、いわゆる名場面にはなっている。小学生むきの唱歌でも、ながらくうたわれてきた。ここにも、そのあらましを書きつける。
荒法師(あらほうし)でもあった弁慶は、毎夜のように五条橋へ出没した。刀や薙刀(なぎなた)を千本あつめる。そう願をかけたためである。刀剣を所持した通行人へおそいかかり、それらを強奪しつづけた。そのかいもあって、収集の数は999本になる。あと1本あれば千本というところまで、こぎつけた。弁慶が牛若丸とでくわしたのは、ちょうどそんな日の晩である。
橋をとおりかかった牛若丸は、被衣(かずき)をかぶっていた。女のように、よそおっていたのである。弁慶も、はじめは娘が歩いているのだと、見あやまる。そのまま、橋をわたらせようとした。だが、とちゅうで気づく。少女ではない。あれは少年だ、と。
そう見きわめた弁慶は、相手をよびとめた。そして、恫喝する。刀をそこへ、おいていけ。さもなければ、お前を斬る、と。おどされた少年は、しかししたがわない。きっぱり、はねつけた。そのため、橋の上では両者の対決がはじまっている。
いさかいに勝ったのは、すばしっこい牛若丸であった。強者(つわもの)の弁慶も、軽やかな相手をとらえられず、降参する。さらに、敗北を余儀なくさせられた相手の少年とは、主従の関係もむすんでいる。もちろん、主(あるじ)は牛若丸、源義経であり、弁慶はその従者になった。