(イラスト・金子幸代)
2021年本屋大賞受賞後第一作。
すれ違う母娘の物語の
冒頭一挙掲載!
辛かった、哀しかった、寂しかった。
痛みを楽にするのは楽だった。でも――
千鶴が夫から逃げるために向かった「さざめきハイツ」には、自分を捨てた母・聖子がいた。
他の同居人は、娘に捨てられた彩子と、聖子を「母」と呼び慕う恵真。四人の共同生活は、思わぬ気づきと変化を迎え――
2021年本屋大賞受賞作家・町田そのこが描く、母と娘の物語。
冒頭を一挙掲載します
「著者プロフィール」
町田そのこ(まちだ・そのこ)
1980年生まれ。福岡県在住。 「カメルーンの青い魚」で、第十五回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。2017年に同作を含む『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。他の著作に『ぎょらん』『コンビニ兄弟―テンダネス門司港こがね村店―』(新潮社)、『うつくしが丘の不幸の家』(東京創元社)がある。2021年、『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社)で本屋大賞を受賞した。
1 廃棄パンの絶望
おめでとうございます。芳野(よしの)さんの思い出を、五万円で買い取ります。
明るい声で言われて、わたしは一瞬言葉に詰まった。
「今回は当番組の企画にご応募くださって、ありがとうございます。芳野さんの思い出は見事入賞、準優勝となりました」
電話の向こうの相手―確か野瀬(のせ)と名乗った男は、わたしの反応などお構いなしに喋り始めた。
「御存じかもしれませんが、この企画は四回目なんです。そして、今回が一番リスナーの反応が良かったんです。感想がいまもバンバン来てますよ」
あなたの思い出、売ってみませんか? SNSでの人気投票ののち、上位入賞者の思い出は番組で買い取ります。
それは、毎週聴いているラジオ番組の企画のひとつだった。これまでは聴くばかりで、応募しようと思ったことなど一度もなかった。けれど、今回は出来心のようなものがあって、初めてメールを送ってしまった。
「へえ、ほんとですか。嬉しいなあ」
平坦な声で呟き、天井を仰いだ。ゆっくりと息を吸い、吐く。感情を乱すのは、二週間前に終えていた。番組のパーソナリティーがわたしの書いた文章を朗読しているのを聴いて、何てことをしてしまったのだと血の気が引き、悲鳴を上げた。ひとに言うものでない思い出を振りまいて、どうするのだ。しかし、わたしがどれだけ焦り、取り消してもらおうとしても、あの日々の記憶は淀みなく世に流れ出ていった。もう、わたしの思い出はわたしひとりのものではなくなってしまった。誰かとの共有コンテンツのひとつとなって、わたしの意思で動かせなくなった。であれば、こんなこともありえるのだろう。
「今回は『夏休み』というベタなテーマですし、いろんな思い出が集まりましたけど、芳野さんのものはその中で異様なパワーがあった。ぼくはね、芳野さんに優勝してほしかったんですよね。メールを読み終えてからしばらくは、小学一年生の芳野さんのことが頭から離れなくって」
野瀬さんは熱っぽく言って、ぷつりと言葉を切った。それから声を潜めるようにして、「どうなったんですか」と訊いた。
「あの別れのあと、どうなったんですか?」
ふっと、遠い日が蘇える。父の車に乗りこむわたしを、じっと見つめていた母。またあとでね、と手を振るわたしに、母はゆっくりと片手をあげて応えた。あのときわたしが母の車に乗ると言っていたら、何か変わっていただろうか。
「どうなるも何も、書いていたまんまです。母は、いなくなりました。わたしはあれ以来、母とは一度も会ってないんですけど、自由に生きているみたいですよ」
もう一度、息を吐く。吸ったことはないけれど、煙草の煙を吐くように、ふー、と唇を尖らせながら。そうしながら、わりと平気だなと思う。まるで、わたしの口を借りて誰かが勝手に喋っているみたいだ。
それならよかった、と野瀬さんが笑う。
「安心しました。いや、失礼を承知で申し上げるんですけどね、お母様は自死されたんじゃないかと、それだけが心配で」