松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」になる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。たとえば「征夷大将軍」に任命されたことで有名な源頼朝ですが、本郷先生いわく、そもそも彼を担ぎ上げたのはむしろ在地の武士側だったそうで――。
源頼朝の挙兵と奇跡の四二日間
十代前半に流人となった源頼朝は、二〇年もの月日を配流地である伊豆で過ごすことになりました。そしてついに治承四(一一八〇)年八月一七日、頼朝は平氏追討の兵を挙げます。
伊豆守目代の山木兼隆を討ち、初戦に勝利するも、大庭景親・伊東祐親らの軍勢に石橋山で敗れ、土肥実平らの助けを受けて、わずか七人で船に乗って房総半島に逃れます。そこで千葉常胤や上総広常ら、父・義朝にかつて従った武士たちを味方につけて再起を図り、鎌倉入りを果たすのです。石橋山の敗戦からわずか四二日後のことでした。
『吾妻鏡』によれば、四二日間のうちに兵の規模は五万人に膨れ上がったとされています。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の執権となった北条氏の命で作成された記録ですから、軍勢の数も幕府側に都合のよいように「盛って」あると考えてよいでしょう。だいたい実数は一〇分の一くらいだったと考えると、およそ五〇〇〇人程度と推定できます。
それでも、当時としてはたいへんな大軍だったことに間違いはありません。鎌倉入りした頼朝は、房総半島だけでなく、武蔵、相模、伊豆、駿河を従え、かつて父・義朝が実績を挙げた南関東を平定しました。まさに奇跡の四二日間だったわけです。