今もどこかで幸せであればいい

「読んだよ」

借りていた本を返す際、私は彼に感想を伝えた。

「孤独と向き合える本だった。あと、『そんなの無理だよ』って思う一節があって、その部分が一番嫌いで、一番好きだった」

「なにそれ。好きなの、嫌いなの、どっち」

「どっちも。『嫌い』は少し違うかもしれないけど、今はまだ直視できない」

その本を返してしばらく経った頃、その人は私に合鍵を返し、別れを告げて去っていった。最後まで優しい人で、最後まで本当のことを言わない人で、私はその人の年齢も職業も知らないままだった。あれから20年経った。今の私は、一番嫌いで一番好きだった一節を直視できる。何より、今はもう、この一節が嫌いじゃない。

“だからもう、これ以上だれも傷つけないでほしい。恨まないでいてほしい。少し時間がかかるかもしれないが、あなたにひどいことをしたこの世界を許してあげてほしい。”

自分を傷つけることで誰かを傷つけていたあの頃、私はあらゆるものを恨んでいた。今も、恨みが消えたとは言い難い。この世界を許せたとも、到底言えない。ただ、いつかはこういう心持ちになれたらと思う。すべてを許すことはできずとも、少なくとも自分のことぐらいは許したい。

あの人が、今もどこかで幸せであればいい。名前も思い出せない人。顔さえも、朧気な人。それでも、あの当時、彼に返した本を探し出して買い直すくらいには、私は彼のことが、ちゃんと好きだった。

※引用箇所は全て、乙一著作『暗いところで待ち合わせ』本文より引用しております。