ご恩を与えられぬ者は奉公を要求できる主人になれない

それで結局、謙信は後半生、関東のあるべき秩序のために戦うのではなく、自家の領土の拡大に努めるようになります。家臣に利益を配分して自身の求心力を高めねばなりませんから、これはやむを得ない仕儀でしょう。

このとき彼が目指したのは、関東ではなくて、強力な戦国大名のいない北陸でした。越中、加賀、能登に侵攻し、「越山あわせ得たり能州の景」の詩句が詠まれます。

つまり豊臣の権威といっても、それは結局、後年の足利の権威のようなものだったのではないでしょうか。

関ヶ原以降の豊臣は、土地も、官職も与えられませんでした。そして「ご恩」を与えることのできぬ者は「奉公」を要求する主人にはなれません。

恩愛の情は確かに存在しますが、それで行動を決することができるのは、自身の家臣たちに責任を取らないでよい浪人のみです。

ですから、大坂の陣において、豊臣方に味方した大名は一人もいなかった。その事実の重さを受け止めねばなりません。


「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。