人間同士の本質的な関係
惚れた腫れたはどうせ短期的なもので、ある程度の期間を経れば、やがてうわべだけの綺麗なところを味わうだけではやっていけないフェーズに入る。他人同士が共に生きていくのだから、当然泥臭い部分も出てくるし、取り繕わない素の部分も許容し合う努力が必要になる。
そういった深い関係は社会では「=夫婦」で育むものとなるのだろうけど、別にそれは、恋愛関係ではない同居人でも、よく一緒にご飯を食べる近所に住む友達でも、まるで家族のようになった大家さんでもいいのだろう。
関係性のきっかけ、入口は何でもよく、その後の人間同士の本質的な関係こそが本番で、入口を過ぎたあとに始まる本番のほうを求めるのは、きっと人間の根源的な欲求なのではないか、と思うのだ(もちろん独りを好む人もいて、その限りではない)。
私は恋愛そのものではなく、恋愛至上主義やロマンティックラブ・イデオロギーが嫌いだ。
恋愛結婚した人でも、恋愛至上主義やロマンティックラブ・イデオロギーが嫌い、違和感があると言う人を最近よく目にする。恋愛は、「タイプ」「条件」という外面的な部分で惹かれ合った人同士から始めることが多いのかもしれないが、その後は普遍的な人間同士の関係に移行していく。
でも、やたら語られるのは「惚れた腫れた」の入口の部分なのだ。「年齢」「性別」「容姿」「職業」「年収」「バックグラウンド」。そういった条件で、相手を品定めする様。そこばかりが議論となるのを見ては、辟易とする自分がいる。でもきっと、その入口の議論こそが人間の心を触発し、心を掴んで離さない部分なのだとも思う。