離婚の直前

話し合いの結果、当座の生活費として100万円の小切手を渡された。

住んでいる中野区の家を渡す。家具調度、電化製品などは新しくする。8歳の娘のりえ子が成人するまでは、毎月40万円の養育費、生活費を払うことも決められた。

赤塚はりえ子の親権を望んだが、登茂子は拒否した。りえ子だけが、生きがいになったのである。

別れる直前、登茂子は、「赤塚先生はウハウハやってる24時間。それに比べて私は泣いてる24時間。こんな割りに合わない24時間なんて……、ああやめた」と開き直ったという。

すると、食欲ががぜんわいてきて、「太った、太った。(服のサイズが)7号から9号になって。浅丘ルリ子みたいだったのに……。ストレス、緊張感から解放されたのね」。

73年11月5日、ふたりは離婚した。

赤塚38歳、登茂子33歳、りえ子は8歳になっていた。

※本稿は、『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』(内外出版社)の一部を再編集したものです。


赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』(著:山口孝/内外出版社)

強い、弱い、きれい、汚い……。

すべての存在をあるがままに命がけで肯定した天才と、その天才を生み育てた「母」の物語。

3人の「かあちゃん」が大好きだった、赤塚不二夫のすべて。