1945年3月26日に「硫黄島の戦い」が終結してから、2024年で79年が経過しました。戦没した日本兵2万2000人のうち1万人の遺骨が見つかっておらず、現在も政府による遺骨収集ボランティアの派遣が続けられています。北海道新聞記者・酒井聡平さんは、硫黄島関係部隊の兵士の孫。過去4回硫黄島に渡り、うち3回は遺骨収集ボランティアに参加しました。今回は、酒井さんの初の著書『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』から一部引用・再編集し、硫黄島に眠る謎に迫ります。
「首なし兵士」の衝撃
遺骨収集作業は上陸翌日に始まった。
壕の入り口付近で見つかったその兵士の遺骨は、頭だけが粉々だった。
「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」
約10年前から毎年、遺骨収集に参加している神奈川県のベテラン団員の水野勇さん(74=年齢は当時=)がそうこぼした。
一部の骨片には鉄が付いていた。近くでは手榴弾の破片も見つかった。
ここは硫黄島の北端。「矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」との訣別電報などで知られる硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将がいた司令部壕から400メートル北東側だ。
1932年ロサンゼルス五輪馬術金メダリストで戦車部隊を率いたバロン西(西竹一男爵)が消息を絶ったと伝えられる地からも近い。
「首なし兵士」は追い詰められて、手榴弾を頭に当てて爆発させ、自決したのだろうか。
先の大戦では大勢の日本勢が自決によって絶命した。
背景として知られているのは、1941年に東条英機陸相が説いた軍人の心得「戦陣訓」がある。
その一節である「生きて虜囚の辱を受けず」を多くの兵士は忠実に守り、捕虜になることを拒み、自決を選んだ。
きっとこの兵士もその一人だと僕は考えた。だから、その時点の僕は、頭がない遺体が多い理由を探ろうとはしなかった。