本土へ帰る
見つかった遺骨は、白い布の上に置かれた。
その日の作業終了時間になると、白い袋に骨を移して「捧持(ほうじ)」した。捧持とは「ささげて持つ」という意味だ。
遺骨収集団では、遺骨を現場から、宿舎内の仮安置室に移動させることを指した。
例えば、3体の遺骨が見つかった日は、収集団の中から、捧持する3人が選ばれた。
優先されたのは、遺族だった。3人は遺骨の入った白い袋を胸の前で抱え、ほかの団員と一緒に宿舎に帰るマイクロバスに乗り込む。
捧持の際は私語を禁じられた。なぜなのか。
「葬儀場から火葬場に向かうバスでも私語は慎むでしょう。それと同じですよ」
と、経験豊富な団員が教えてくれた。
ここでは、毎日がお葬式なのだ。
硫黄島は、活発な火山活動による隆起で、島のあちこちがでこぼこになっていた。舗装工事が追いつかないのだ。だから、マイクロバスはとても揺れた。
終戦から七十余年を経て純白の袋に納まった遺骨は、走るバスの振動を受けてコトコトと揺れ続けた。
やっと本土に帰れると喜んでいるようだと、僕の目には見えた。
※本稿は、『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を再編集したものです。
『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(著:酒井聡平/講談社)
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか?
滑走路下にいるのか、それとも……。
民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査。
新聞記者が執念でたどりついた「真実」。