主戦派と恭順派

このとき主戦派の若き家老・鳥居三十郎は、驚くべき決断をする。城下を戦禍から守り、武士の意地を通すため、少数になった主戦派だけをともない、隣りの庄内藩へ向かったのである。

庄内藩は鳥居たちを受け入れ、藩境の鼠ヶ関(ねずがせき)を守らせた。

一方、恭順した村上藩士は新政府方となり、脱走村上藩士と同士討ちを演じる悲劇が起こってしまう。

ただ、脱走村上軍は、庄内藩士と手をたずさえて新政府の大軍を食いとめ、最後まで鼠ヶ関砦を守り切ったのである。が、そんな庄内藩も降伏することになり、鳥居たちは村上に帰った。

無抵抗で城下を明け渡した村上藩は本領を安堵されたが、列藩同盟に加わった責任は問われた。

このとき首謀として自ら名乗りを上げた鳥居は東京で刎頸(ふんけい)の判決を受け、村上で処刑されることになった。これに主戦派が反発、結局、藩は切腹へ変更する。

しかし処刑前日、恭順派のリーダー江坂與兵衞が主戦派によって殺害されたのである。このため、明治になってからも村上では、主戦派と恭順派がいがみ合い、これに町人の対立が加わって混迷を極めることになった。

このように弱い藩から見れば、会津藩や庄内藩、仙台藩こそが「悪」という見方も成り立つのである。

いずれにせよ、明治維新150年を機に、多様な観点から歴史が語られるのは、大いに賛成である。

※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。


逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(著:河合敦/扶桑社)

あなたの知っている「歴史」はもう古いかも!?

教科書を切り口にした歴史の新説、教科書では紹介されない不都合な日本史……。

高校歴史教師歴27年、「世界一受けたい授業」でもおなじみの河合敦先生が解説。