ビジネスセンスのあった平清盛
その後、12世紀に入ると、義家の二男・源義親(よしちか)の乱が起こり、嘉承元(1108)年に平正盛(まさもり)によって鎮圧される。
この功により、伊勢平氏は急速に力を伸ばし、子の忠盛、孫の清盛を経て源氏をしのぐようになった。
さらに保元(ほうげん)の乱、平治(へいじ)の乱と反乱が続く中、絶大な権勢を握ったのが、白河法皇崩御後に院政をとった鳥羽上皇に活用された武士の棟梁(とうりょう)・平清盛である。
平清盛は武門の棟梁でありながら、日宋貿易でも実利をあげる広い視野を持っていた。平治の乱で棟梁の源義朝(よしとも/頼朝・義経の父)を失った源氏は弱体化し、勝利した平清盛が平氏政権を築く事になる。
そして永暦元(1160)年、参議に任官されて武士で初めて公卿となり、後白河上皇の信任を得て、仁安2(1167)年、ついに太政(だじょう)大臣にまで登り詰める。
その後、天皇家とも外戚関係を結び、藤原氏のような貴族政権を踏襲する。だが、一つ大きな違いがあった。
ビジネスセンスも持ち合わせた清盛は日宋貿易で宋銭を大量に輸入し、日本経済にも大きな影響を与えるほど、莫大な利益を上げた。その利益が後宮にも回っていたのであろう。
公家女房達のファッションは、武士の力が中央政治を動かし始めた11世紀末から12世紀末に至る100年の間は、服装の面でも最も絢爛豪華(けんらんごうか)な時代となった。
公家女房装束が異様なまでに飾られ、身につけて居ならぶばかりでなく、邸内の装飾としてまで装束を用いるようになったのである。
※本稿は『イラストでみる 平安ファッションの世界』(有隣堂)の一部を再編集したものです。
『イラストでみる 平安ファッションの世界』(著:高島克子/有隣堂)
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