そのときあたしは、以前ナミさんに聞いたことを思い出した。仔猫を保護するとき、スマホで猫の声を鳴らすと、隠れている仔猫が出てくるとナミさんは言ってたのだ。それであたしはスマホに取りつき、「母猫が仔猫を呼ぶ声」というのを見つけ出し、鳴らしたとたんにエリックが飛び出してきた。
さっきまで不安で泣いていた仔猫が、そしてここ数十分は暗がりの中で息をひそめていた仔猫が、「あ、おかあさんだ」と喜びに満ちあふれ、手足をのびのびと広げ、口におっぱいの感触を期待しながら、ぱっと躍り出てきたのだ。
その瞬間、あたしは自分の罪深さに打ちのめされた。
こんな幼い仔猫をだましてしまった。
だまされた仔猫が不憫でならなかった。
母猫を慕う心が、不憫でならなかった。
せめてもの罪滅ぼしに、あたしはつかまえたエリックを抱いて、唾をつけた指で、眉間といわず顎の下といわず、母猫がなめるように丹念にこすり立て、満足のごろごろを言わせてゆっくり寝かしつけてやった。
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新しい生活が始まった。
熊本―東京を行き来するあたしを待つのは、
愛犬(三歳)、植物(八十鉢)、学生たち(数百人)。
ハマる事象、加齢の実状、
一人の寂しさ、そして、自由。
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