「天功の名を襲名するにあたっては、先代が手掛けていた脱出ショーを引き継ぐというのが条件でした」

「18歳まで生きられない」と噂をされて

そもそも、私が二代目・引田天功を襲名することになったのも、不思議な運命の流れから。生まれたときから体が小さかった私は、しょっちゅう熱を出したり、全身に湿疹が出たりして、外で満足に遊ぶこともできないほど病弱でした。

そのため、周囲の人たちは、成人するまで元気でいるのが難しいのではないか、18歳まで生きられないのでは……などと噂をしていて。私もそれに薄々気がついていました。

でも、「18歳までしか生きられないなら、自分の好きなことを存分にやりなさい」と母に励まされ、舞台女優になろうと決心。たまたま母の従兄弟が引田天功事務所の社長をしていたこともあり、そのツテをたどって、高校を辞めて新潟からひとりで上京したのです。

当初は舞台女優の勉強になるからと、初代のアシスタントとして一緒にステージに立つこともありました。その後、いちど事務所を離れ、アイドル歌手としてデビュー。ところが、そんな中、初代が心筋梗塞で突然亡くなってしまった。

いったい誰が後を継ぐのかとなったときに、「人にはカルマというものがある。あなたならできるから、天功の名前を継ぎなさい」と、ベテラン男性のお弟子さんたちを差し置いて、後援会の方々などからなぜか私が強く推されたのです。天功の名を襲名するにあたっては、先代が手掛けていた脱出ショーを引き継ぐというのが条件でした。

もちろん、とても怖かった。先代が亡くなる前に代理で出演した脱出ショーでは、大爆発したせいで両耳の鼓膜が破れちゃいましたからね。でも、もともと18歳までしか生きられない命だったのだと思えば怖くない。万が一、ショーの最中に死んでしまったとしても、みんなが私の名前を憶えていてくれるならそれでいいと覚悟を決めて、二代目を継ぐことにしたのです。

当時の私はまだ10代でしたから、「なぜ、あんな女の子が?」というバッシングや陰湿ないじめもたくさん受けました。楽屋に大道具を置かれて使えなくなったり、ステージで使うハトを殺されてしまったことも……。

歌と踊りとマジックを合体させた私のショーを見て、「歌手でも俳優でもないくせに。そんなのマジックとは認めない!」と、さまざまな方面から非難されることはしょっちゅうでした。でも、「私が二代目を継ぐ以上、これまでの日本のマジシャンとはまったく違うショーをやります」と宣言し、中国やエジプトのイリュージョンの歴史を学んだりもしました。