私に残っている叔父の記憶

叔父というのは、私の母のただ一人の弟です。朝鮮の会寧(かいねい)で十余年、最後まで工兵准尉でした。そして敗戦後の8月19日、一家4人で自決しています。満洲とソ連、朝鮮のちょうど国境が接するあたりで。娘たちは小学校2年生と、まだ1歳にもならない赤ん坊でした。

私は4歳のとき、一家で満洲へ渡りました。わが家は父が大工で不景気だったものだから、満洲へ渡る前はたびたび母の実家に居候することがありました。すると叔父が、「久枝ちゃんは、おじさんが女学校に上げてあげるね」と言ったというのです。

現代で言えば「大学に行かせてあげる」といった意味合いですから、母は夫婦の貧しさを指摘されているようで、ずいぶん屈辱的だったらしいです。

叔父は、祖母が年をとって産んだただ一人の男の子だったこともあり、小学校を卒業すると家具職人のもとに弟子入りしていましたが、徴兵検査で「甲種合格」と背中を叩かれて、目の前が真っ暗になったと言います。そして入隊し、会寧へ渡りました。

私は小学校を卒業した年、会寧の叔父の家を一人で訪ねているんです。その家に、職人として叔父がこれまでに丹精したものを集め、額にしたものが飾られていたことをよく覚えています。妻である叔母は幼いときの事故で左手の指がなく、いつも隠しているような人でした。叔父はその人と恋に落ちたあと、軍隊にとられたのです。

私はね、戦争中は軍国少女だったんです。日本が勝つものと信じ切って日本兵の非常食を作る動員や、開拓団に住み込みの動員にも行きました。14歳で終戦を迎えたとき、「神風は吹かなかった」と本気で思いました。

自分も戦争で死ななければならない、と真剣に思っていたんですから、死ぬことの意味をよくわかっていなかったのでしょう。恥ずかしいけれど、そういう自分を否定したり、忘れたりすることはできないと思って書いたのが、『14歳〈フォーティーン〉』です。

後編につづく