2022年10月1日に永眠された、プロレスラー・アントニオ猪木さん。実弟である猪木啓介さんは2025年2月、アントニオ猪木さんのライセンス運営を管理する「株式会社猪木元気工場」の新社長に就任し、<元気>を発信し続けています。今回は、啓介さんが<人間・猪木寛至>のすべてを明かした書籍『兄 私だけが知るアントニオ猪木』から、一部を抜粋してお届けします。
「1976年」の激闘
プロレスラーとしてのアントニオ猪木にとって、特筆される年が1976(昭和51)年である。
「柔道王」ルスカとの初対決(2月)、ボクシング世界王者モハメド・アリとの異種格闘技戦(6月)、韓国の大邱(テグ)・ソウルにおけるパク・ソンナン戦(10月)、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン戦(12月)など、いまなお語り継がれる伝説の試合がこの年に集中しており、しかも通常のシリーズではタイガー・ジェット・シンやアンドレ・ザ・ジャイアントとも戦っていた。
営業部員だった私にとってもこの頃はもっとも忙しかった時代だった。
プロレスファンは数々の名勝負を思い出にすることができる。しかしプロレス団体の営業をやっていると、試合の観戦を楽しんでいる余裕はない。ビッグマッチになればなるほど仕事量も増えるし、末端の営業部員は海外遠征に必ず同行するわけではないからだ。
私はこの年、韓国遠征(パク・ソンナン戦)は現地に入ったが、パキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)には参加しなかった。6月のアリ戦は日本武道館の客席から見ていたが、2度目のブラジル遠征が8月上旬に入っていたため、こちらの準備に忙殺されたおかげで、試合前後のことはあまり記憶に残っていない。