開戦の前年に設立した早稲田大学商学部卒業生の会

私には気になることがあった。父が平成10年に79歳で亡くなった後、父の趣味が本の収集だったので整理しようと本棚を見たら、表紙に『昭和53年4月現在(卒業38周年)稲亜二六会』と印刷された冊子があったのだ。昭和53年までの会合の記録が掲載されていた。

私は何の会だろう?と思い、あちこち調べた。

そして、『日本工業新聞』(昭和53年10月12日発行)の『出会い』という欄に、『稲亜二六会』とタイトルがついた日本エヌ・シー・アール(株)(現・日本NCRコマース(株))の当時の社長・三富啓亘氏の記事を見つけた。その記事から、この会は昭和15年に早稲田大学商学部を卒業した人たちの会であることを知った。三富氏は稲亜二六会の幹事で、早稲田大学の「稲」と亜細亜の「亜」、卒業の年は昭和15年で紀元二千六百年なので「二」と「六」を取って会の名前をつけたこと、卒業と同時に軍隊に入る人もいて、戦死したら皆で弔い、将来は助け合おうという主旨の会であることなどが分かった。

私は三富氏の記事を読んで、父に直接、戦争と学友たちの姿を詳細に聞いておけば良かったと思った。

上の右から 『別冊1億人の昭和史「学徒出陣」日本の戦史別巻9』(毎日新聞社 昭和56年9月1日発行) 『シベリア捕虜収容所の記録』週刊読売臨時増刊 (読売新聞社、平成2年12月20日発行) 『戦争中の暮しの記録』(暮らしの手帖社、昭和59年8月1日発行 第9刷)  下の右から 『東京大空襲』早乙女勝元著(岩波書店、昭和46年1月28日発行、昭和58年1月20日第23刷) 『日本空襲記』一色次郎著(文和書房、昭和47年6月10日発行) 『人間の條件』五味川純平著(現代の文学33 五味川純平集 河出書房新社、昭和38年6月20日発行)
父の本棚にあった戦争関連の本。上の右から『別冊1億人の昭和史「学徒出陣」日本の戦史別巻9』(毎日新聞社)、『シベリア捕虜収容所の記録』週刊読売臨時増刊 (読売新聞社)、『戦争中の暮しの記録』(暮しの手帖社) 下の右から『東京大空襲』早乙女勝元著(岩波書店)、『日本空襲記』一色次郎著(文和書房)、『人間の條件』五味川純平著(現代の文学33 五味川純平集 河出書房新社)(写真提供:しろぼしさん)

父は70代に難病になり、本のことばかり気にしていた。父の本棚には、戦争関連の本が何冊もあった。私は、忘れたいだろうに、なんで戦争関連の本を買うのだと聞くと、父は「納得がいかないのだ」と答えた。昭和20年3月10日の東京大空襲で両親と妹は死んだ。シベリア抑留から帰ってきたら、死んだと思われていて、愛する妻は別の人と結婚していた。本の中に、その答えを求めていたのかもしれない。

父が両親と妹の位牌を拝まなかったのは、その死に納得がいかなかったのだろうか?
父は私に、「俺が死ぬ時は、家族はそばにいなくてよい。親戚も呼ぶな。シベリアで死んだ仲間たちに悪いからな」と言った。

父は、その後、病院に入院した。深夜に医師が病室を見た時に、父は危篤だった。母と兄と私が駆けつけた時には、父は亡くなっていた。病院は桜の木々に囲まれていて、病室の窓の外は春の嵐で、闇の中を猛吹雪のように桜の花びらが散っていた。

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