適当な結論を探る「先進的な行為」

ところが「どっちでもいい」という思考は、実はあまり評判がよくない。

親しい人とレストランに行く、イベントに行く、映画を観る。そんなとき、「何にする?」と聞かれて、「どっちでもいい」「なんでもいい」と答えていると、優柔不断なヤツとみなされることがある。最悪なのは「どっちでもいい」と言ったにもかかわらず、後になって「別のほうがよかった」と言い出すパターンで、そうなると軽蔑の対象になりかねない。

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社会に参加してバリバリと仕事をしている時期であれば、「どちらでもいい」という態度は「決断力の欠如」と評価される。年配者であっても、人生の極めて大事な局面で自ら決定できないのは問題があるだろう。自分の死後の財産の処分などについて、何も決めずに遺された家族に丸投げすると、家族は困ってしまうだろう。

しかし「何を食べるか」「どの映画を観るか」といった事柄について、「どちらでもいい」と答えるのは決して非難されることではないと思う。最終的な決定権を相手に譲り、ゆるやかに話し合って決めていこうという意思表明だからだ。

その態度が非難されやすい背景には、「男は女をリードするべきだ」という昭和的な考えもあるかもしれない。「どっちでもいい」と口にして不興を買うのはもっぱら男性が多いように思う。女性がそのように答えたら、かつては「おしとやか」と好意的に思われたのではないか。だが時代は移り、男性が女性をリードすべきだという桎梏が外れたいまとなっては、男女関係なく決定権を譲り合って、話し合いで適当な結論を探る「先進的な行為」になるだろう。

「サメテガル」という態度であれば、自分の考えを人に押しつけず、独りよがりにならず、相手を尊重しながら生きていける。