音も気配もなく背後からの不意打ち
その影は、藪の中へと姿を消し、斜面を上がっていった。普通ならそこで警戒心が働いてもおかしくない。しかし、日常の延長にあった“いつもの釣り場”という安心感が、わずかでも判断を鈍らせたのかもしれない。金井さんは、気にせずそのまま釣りを始めた。しかしこの日は釣果がなく10分ほどで竿を納めた。「いつも、釣れなかったらすぐ引き上げる」とこの日も車へ戻り、トランクを開けたその瞬間だった。
「真後ろからガバッとやられたんだ。声なんか聞こえなかったよ。音もにおいもない。本当にいきなりだった。でもやられた瞬間に『クマだ!』と思ったな」
それは、本当に突然だった。直前に目撃していた“黒い影”が再び姿を現し、襲いかかってきたのだ。
クマを目撃または接触した人の中には、その直前に「鼻を突くような、強烈な獣のにおいが漂っていた」と証言する人もいる。鼻腔の奥にまとわりつくような異臭だ。しかし、金井さんは「変わったにおいはしなかったと思う」と話す。
また、クマは体重100kg前後の巨体でありながら、森林の中では驚くほど静かに移動することができる。脚の裏に脂肪が多く、接地音が少ないためだ。そのため音を立てることなく金井さんとの距離を縮めてきたのだろう。
背後から突然、鋭い爪が振り下ろされ、右側の頭部と眉上が切り裂かれた。一瞬にして、大量の血が噴き出した。キャップをかぶっていたことが衝撃を少し和らげたのかもしれないが、あと数cmずれていれば、目を直撃していた可能性もあった。
一撃を受けたあと、金井さんは反射的に振り返ったが、そこにはもう姿はなかったという。それでも金井さんは、「クマだった」と確信している。
「でけぇ爪だよ、皮膚があんな裂け方するのは。爪の痕も角度も位置も、手でやられたって感じだったな。あれはクマしかいねぇべ」
確かに、クマが立ち上がれば身長165cmの金井さんの頭部を攻撃できるくらいの高さにはなる。イノシシには無理だろう。そして、何より彼をそう断言させるのは、地元での長年の感覚だった。
「昔からこのあたりは“クマの本場”みたいなところで、クマは身近な存在ともいえる。遠目に見たことは何回もあるよ。だけど実際に接触したのは今回が初めてだ。興奮してたんだべな。自分がどれだけ出血してるかも分かんなかった」
襲撃された後、意識はしっかりしていたが、痛みはさほど感じなかったという。その場に倒れることもなく、金井さんはタオルで傷口を押さえながら車に乗り込み、自らハンドルを握ってその場を離れた。