柚月 「お前は将棋がなければ生きる意味がないんだろう?」と駒音だけで伝えるのは、熊澤尚人監督の見事な演出だと思います。私は作品をきっかけにプロの対局を観戦する機会をいただくようになりましたが、棋士の方が指す一手の重みはすごい。

AIがどんなに進化して優れた一手を指そうとも、棋士同士が生身の身体で盤上に向かい合う迫力にはかなわないと思います。

羽生 「誰かと指す」ということでいうと、無名でいることが有利なはずの真剣師も、不思議と表の世界に出てくるんですよね。私が対戦したおじいさんしかり、小池重明さんもアマ名人からプロ編入を目指しました。

柚月 人は誰しも承認欲求というものがありますからね。お金に不自由していなくても、もっと別の評価が欲しくなるのかもしれません。あるいは表の世界で「こいつは強い」と評判の相手と闘ってみたい、という気持ちになったのかも……。

羽生 どんなに才能があっても、自分より強い相手と指さないと、将棋はあと一歩のところで上達できないものです。さらにいえば、自分にはない個性の持ち主と対局することでしか磨かれない部分もある。

考え方や性格、価値観が水と油のように異なる相手とぶつかってこそ、気づくことがあるんです。人間同士の根本的な関係性と通じるものがありますね。

後編に続く

【関連記事】
羽生善治「将棋は、人生の中でいつでも始められてやめられるのがよいところ。仕事や子育てが一段落してから覚えるのもいい」柚月裕子『盤上の向日葵』対談
柚月裕子「ちょっとした家族のひび割れを、安心してモヤッとしていいんだと伝えたくて。故郷岩手を舞台にした初の家族小説に挑戦」
羽生善治「将棋の世界は、人間がAIから学んでいく時代に入っている」新井紀子×羽生善治×重松清〈前編〉
映画『盤上の向日葵』は全国大ヒット上演中