一九三三年、日本統治下の台湾。ある事件により東京の雑誌社をクビになった記者・濱田ハルは、台中名家のお嬢様・百合川琴音のさそいに日本を飛び出し、台湾女性による台湾女性のための文芸誌『黒猫』編集部に転がり込んだ。記事執筆のため台中の町を駈けまわるハルが目にしたものとは――。モダンガールたちが台湾の光と影を描き出す連作小説!

 五

 ハガキのメッセージの意味が気になって、ハルはほとんど眠ることができなかった。

 眠い目をこすりながら教室に入ると、みんなはすでに割烹着を着け終わっていた。そういえば、朝の授業は「割烹」だ。

 恩寵高女には、「家事」という科目があり、そのうち食品の栄養や衛生を学ぶのが「食物」という授業で、「割烹」は、生徒全員割烹着を着けて、理科室でおこなう調理実習を指している。

 櫻井先生は理科室の黒板に調理の手順を書くと、今日は寮の部屋ごとにグループに分かれて、オムライスを作るのだと教えてくれた。

「――台所の主人たる若奥さまがお客さまをもてなしたり、女中の知らないような斬新な料理を作ったりできるようにってことでしょ。良妻賢母もたいへんだわねえ」  
 朝子は思いっきり皮肉っぽい表情でハルに耳打ちする。例の謹慎以来、朝子は櫻井先生をほとんど目の敵のようにしている。 

 自慢ではないが、ハルは料理がまったく得意ではない。女子英学塾のころの下宿にはまかないがついていたし、婦人記者時代はほとんど安い外食ですませていた。

「大丈夫やで! うち、神戸生まれやし、洋食は毎週食べにいっとったんよ」

 紅が自信満々といった様子でそういうので、ハルはいわれるままに卵をボウルのなかでかき混ぜたり、指示にしたがってそこに調味料を入れたりしていく。

 朝子と秀梅が香ばしいケチャップのにおいがするチキンライスを完成させ、あとはオムレツを焼くだけという段階になって、紅がハルの顔を見て、なんか工夫してみいひん? といった。まわりのグループと同じように作るだけでは十分ではない、ということらしい。

 調理実習への生徒の関心を高めるために、櫻井先生は、生徒たちで採点をして一位になったグループには、寮の掃除が一週間免除されるというご褒美を用意していた。

「工夫っていったってなにができるっていうの? 調味料は同じだし、あとはせいぜい焼き加減くらいじゃない?」と朝子。

 秀梅は、そもそも料理に興味がないのか、よくわからないという表情をしている。

「卵をふっくらさせる工夫とか、できればええんやけど――」 

 ふっくらさせる、という響きに、遠い昔、調理実習できいた言葉がハルの脳裏にうっすらと甦ってきた。

「そうだ! 重曹ってね、ケーキを膨らませるときに使うことがあるの。もしかしたら卵もふっくらと焼けるんじゃない?」

 半信半疑という顔をしながらも、朝子が薬品棚に並べられた瓶のなかから重曹というラベルの貼られた小瓶を持ってきてくれた。

 どれくらい入れたらいいのかまったく見当がつかなかったので、ハルは大さじ一杯の重曹を溶き卵に入れて、かき混ぜてからフライパンに流し入れる。

 最初に味見をした紅は、一瞬驚いたような顔をした。

 みんなも食べてや、と笑いをこらえている。朝子も、秀梅も一口食べて、笑いをこらえながら、無言でハルに食べるようにうながす。

 オムレツを口に入れた瞬間、予想だにしなかった激烈な苦味が口のなかを駆け巡った。およそ人間が口にしていいとは思えない苦みだ。

 ハルが食べるのを見守っていた三人は、もう我慢できないといった様子で笑いだした。つられてハルも笑う。

 笑いながらハルは、昔、調理実習できいた言葉を今度ははっきりと思いだした。――重曹は苦いですから、ごく少量でいいのですよ、みなさん、気をつけてくださいね。

「こんな苦いもん食べたん、人生ではじめてやわ!」

「なにがふっくらよ。青山さんって料理の才能があるんじゃない?」と朝子がハルの肩をぽんぽんと叩いた。秀梅まで目に涙を浮かべて笑い続けている。

「ちょっとあなたたち、授業中だってこと忘れないでちょうだい!」

 櫻井先生が駆け寄ってきて注意しても、なかなか四人の笑いは収まらなかった。

 それどころか、苦いオムレツを食べた生徒たちにつぎつぎに笑いが伝染していき、しまいにはほかのクラスで授業をしていた教師まで、何事かと理科室をのぞきにくる有様だった。