
4 不安定な彼女
ベランダに面した窓からは植栽のヤブツバキ越しに午後の日差しが入ってきた。裏手のアパートに面した一階の千景(ちかげ)の部屋も、午後のこの時間は日が差す。
「ケイスケとジョージがアパートの屋根に上がって好きな音楽のことしゃべってた場面はよかったかな」
テレビ画面で再び流れる『明日の世界』のシーンを眺めながら千景が言い、駒子(こまこ)と衣里(えり)も頷いた。
「バンドメンバーたちの会話シーンはだいたいいい感じだった。ツアーの途中でメンバーの雰囲気悪くなるとこも、リアルだったよね」
衣里の言葉に、駒子は後半の場面を思い出して、言った。
「ハチとナベは、あの二人がマリアに好かれようとして曲を作ってるみたいに言ってたじゃん?」
「女のファンに受ける曲なんかすぐ飽きられる、とも言うてたね」
「ハチは顔がよくて女の子のファンが多いのをほかのバンドの人からちょっとバカにされてたから、そのコンプレックスがある感じじゃなかった?」
「ハチの人、いかにも男前っていうか、モテそうな外見やったな。ああいう感じの人が〝女ウケ〟」みたいに言われるんもようあるやんな。本物じゃない、とかさ」
「だからかえって『おれはロックをやってるんだ』って意固地になるのかもね」
ライブハウスの演奏シーンで女性ファンの嬌声を浴びたあとの楽屋でハチが怒鳴っていた台詞を、駒子は真似た。
衣里が聞いた。
「このバンドの音楽ってロック?」
「さあ? 私はあんまりジャンルで分けないからよくわからないけど、ラストサウンズの紹介にはだいたいロックバンドって書いてある」
「エンディングでかかってたのが『明日の世界』でラストサウンズの曲だよね」
「そうそう」
「ツアーの場面で演奏してたんも、バンドの曲? ちょっとだけやったけど」
「たぶんそうじゃない? 途中でケイスケが弾き語りしてたのは、映画のためにダイスケが作ったオリジナル曲だって、マイマイが言ってた」
マイマイ長谷部が、ザ・ラストサウンズの音楽の先進性やのちの音楽シーンに与えた影響などを熱く語っていたが、詳細は覚えていなかった。今度はもう少し話を聞こうと思ったが、映画を観たと伝えたらよろこぶ長谷部の様子が思い浮かびすぎて、それだけで面倒な気分になった。
「『明日の世界』は、ボーカルの人じゃなくてダイスケが歌ってる」
「そうなんや。ダイスケは、暗めのフォークっぽい曲が好きやったんかな」
「それもマイマイがなんか語ってたけど、聞き流しちゃってたなー。YouTubeに誰かがあげたレコードの音源が何曲かあるだけで、配信にはないから他の曲がどんなのかわからないんだよね」
「当時はどんな曲が流行ってたんやろな? 七〇年代後半やと私もはっきりした記憶はないわ」
「シティポップより前の時代?」
衣里は近年のブームで八〇年代の音楽を多少聴いていて、いくつか曲や歌手の名前を言った。
「衣里ちゃん、私よりよう知ってるなあ。配信とか動画とかで昔のも今のも関係なく聴けるから、時間が混ざって不思議な感じするわ。でも、そういうので聴かれるようになった音楽って、当時メインで売れてたやつじゃなかったりするんよな」
テレビ画面で繰り返されるケイスケやジョージ、マリアたちの出会いやいさかいや別れのシーンにあれこれと感想を言い、あちこちに話が転がり、そしてまた画面の中で歌ったり叫んだり走ったりしている彼らについて、三人は話した。
「この監督の別の映画も、メインキャラクターの女の子がかわいかったって言うてたよね」
千景が衣里に尋ねた。
「うん。十七歳か、十八歳で初めて映画に出て、演技の仕事は結局それきりなんだけど」
衣里は、彼女がモデルとして雑誌に載っていたころからファンだったと話した。姉が毎月買っていた雑誌で、最初に載った号は今も実家にとってあるらしい。
「あー、なんやいうたら美少女モデルって時代あったなあ。八〇年代的なひらひらした服で歌うアイドルは減って、雑誌のモデルかCMからめっちゃ人気になってた」
「あの映画も、男二人と女一人の話だったなー、考えてみれば」
衣里が、野崎監督の三作目にあたるその映画のあらすじを説明した。
高校で数学の教師をしている三十五歳の男が、学生時代の友人の妻から彼が失踪したとの手紙を受け取る。長らく会っていなかった友人の家を訪ねると、その妻から、彼には若い恋人がいたと知らされる。友人とその若い恋人を探して、知人を訪ねたり過去の手紙を読み返したりするうちに、北海道の森に住む友人の恋人の若い女に出会う。若い女は、しばらく前まで友人と暮らしていたようだが、恋愛関係にあったのかはっきりとはわからず、今は一人だと言う。彼女の嘘なのか本当なのかわからない話に翻弄されつつ、彼女の語る友人の様子から、忘れていた過去の思い出がよみがえる。いつしか、男は森での暮らしに安らぎを覚え、東京での生活を捨てることを決める。
「私がファンだった彼女は森に住んでる若い女の役で、観てると確かに彼女の魅力に引っぱられていくんだけど、話としてはほぼ回想でしか出てこないその親友との関係がどんどんクローズアップされていって。今だったら、ボーイズラブ的に解釈されるかも」
「『明日の世界』も、マリアがめっちゃ印象強いけど、話としてはバンドのストーリーっていうか、ケイスケとジョージが中心じゃない? 最後も、ジョージと新宿で別れてケイスケが一人で歩いて行くやん」
「そうだねー。最初も最後もケイスケとジョージだから、男と男の出会いと別れだね」
「原作のエッセイの視点がそうなんやろうけど、ケイスケの地元や両親との関係はがっつり描かれてたし、ジョージもバイト先で客やホステスとの会話から意外にナイーブだったりへらへらして見えるけど人情には熱いのがわかったよね。音楽観はめっちゃ語ってたし」
レーズンサンドをかじりながら、駒子はさっき観たばかりのいくつかの場面を思い返した。
「それに比べたら、マリアは、なにを考えてるのかわからない女の子、だもんねえ」
テレビ画面では、ミーコが演じるマリアが白いシャツにジーンズ姿で花束を作っている。指に棘が刺さり、痛いっ、とその指を口元に持っていく。だいじょうぶ? とジョージが声をかけると、棘を取られちゃう花もかわいそうよね、と言ってほほえむ。
駒子は実際の母には似ていないその顔を見つつ、言った。
「うちの母親、何を考えてるのかわからない人って言われてた。いろんな人から。あの人には話しても通じないよ、とか、勘で突き進んじゃうからしょうがない、とか」
「こまっくから見ても、そう?」
「うーん、わからないと言えばわからないし、わかると言えばわかるとこもあるかな」
父が死んでからは年に一度会うかどうかの母の顔をうまく思い出せなくなっている、と駒子は思うことがある。
思い出しても、それはずっと以前の母の顔で、今現在の母ではない。
「こう考えてこういう行動になってるのかな、とは思うけど、その『こう考えて』の部分がなんでそうなるの? という感じ」
「お母さんは、『こう考えて』の部分をどんなふうに言ってたの」
淹れたばかりのほうじ茶の湯気にあたりながら、衣里が聞いた。
「私、母とは会話できないから。推測するしかなくて」
「そっかー。お母さんと難しい関係の人は多いよね」
衣里の返答はそれまでの会話と変わらない軽やかさがあって、駒子はほっとした。
「もう長い間、ごくたまに連絡するだけだから」
「衣里ちゃんは、仲ええよね。こないだ会うたときも、お母さんとお姉さんと韓国旅行行ったお土産くれたし」
衣里は、母の「推し」である韓国アイドルの行きつけのお店や縁のある場所を回って来たのだと、先月火鍋を食べに行ったときに話していた。
「うん。家族のLINEグループで姉も弟も母としょっちゅう話してる。父はそこまででもないけど、仲悪いとかでは全然ない。韓国も、休みが取れたらいっしょに行きたいって言ってて」
衣里の家族の話を、以前から駒子はテレビドラマや漫画の中みたいだと思いながら聞いていた。羨ましいとか自分の家族と比べるとかいうのではなく、現実感を持って想像することが難しかった。
「なにを考えてるかわからない、は、私も言われてたなー」
つぶやいた駒子の言葉に、衣里は驚いた表情になった。
「えっ、こまっくさんが?」
「母も父も、私のことをよくそう言ってた。何を考えてるかわからなくて困る、って」
「えー、私、こまっくさんにそんな感じしたことない」
「せやんなあ」
「まあ、家族って難しいもんだよね。マリアもとりあえず家庭環境複雑感出してたけど、あれはどっちかっていうとマリアのミステリアス要素のためっぽかったね」
落ち着いて話せなくなりそうだったので、駒子は映画の中の女の子たちの描かれ方に話を移した。
ヒロインはやたらワンピース着てるよね、しかも白率高い、マリアもお父さん死んだ話のときは白ワンピじゃなかった? 裸足で走るのもあるある、女友達は妙に派手で気が強い、ライバルやファンの女の子はあほっぽい言動しがちやんな、海に行きたい、海に連れてってと言うのも定番。
海の場面を話していたら、千景が言った。
「私、海って三十年以上行ってへんわ」
「じゃあ、今度のごはん会は遠出する? 鎌倉とか?」
「人多そうじゃない?」
「こないだ友達が三崎で行った魚屋さんがおいしかったと言ってた」
「それ良さそう」
「じゃ、お店聞いとく」
画面では、バンドが再び危機を迎えていた。
映画を二度観たあと、三人で駅近くにある焼き鳥屋で打ち上げをし、夜十時近くに千景と駒子はマンションに帰ってきた。
二階の部屋に戻った駒子は、ベッドに寝転がった。暗い部屋でそのまま眠ってしまいそうだった。
部屋の中は静かだった。犬も猫も、鳥や亀も駒子は飼ったことがなく、この部屋にいる生き物は自分だけだった。
静かで、駒子が動かなければ、部屋の中の物はなにも動かなかったし、音も立てない。ドアが開くこともない。それは駒子をとても安心させる。
ここに引っ越す前、つき合っていた男と三年ほど同居していた。そのうちの一年は、彼はあまり帰ってこなかった。動画編集の仕事をしていた彼は都心に仕事部屋を持っていて、仕事に集中したいからとほとんどの時間をそこで過ごすようになった。その理由が、仕事のためなのか、同居する部屋に帰りたくなくなったからなのか、「ほんとうは」と考えることも心の負担だった。一人のときは安心して過ごせる場所だった部屋にいる時間が、同居している男が自分といっしょにいたくないから帰ってこないということを意識せざるをえない時間になってしまっていた。
しばらくいっしょに住んで仕事や生活が落ち着いたら結婚、と言ったのは彼のほうだった。少なくとも、駒子の認識ではそうだった。同居を始めた当初は二人とも少し遅めの仕事時間である生活もちょうどよかったし、一人暮らしが長かった彼は家事や料理もそれなりにこなしていて、家のことはできるほうがやるという感じでうまくいっていた。しかし、それも、別れることにしたときに彼から「駒ちゃんが結婚したいって言うから努力してきたけど、自分は結婚に向いてないとわかった」と言われたあとでは、自分がそう思っていただけで彼のほうは違った認識だったのかもしれないと思う。
「かもしれない」ばかりで、彼がどう思っていたのか結局のところはわからない。彼はいつも「駒ちゃんがそう思ってたんならぼくの態度がそう思わせてたってことだから」と言うのだった。仕事部屋から帰ってこなくなったことについても、最後まで「一人じゃないと集中できないだけで、駒ちゃんは関係ない」としか言わなかった。
だから、千景がこのマンションに住まないかと言ってくれて、助かった。前に住んでいたところはそもそも駒子が一人暮らしをしていた部屋で、立地も部屋自体も気に入ってはいたから引っ越しを考えるのも億劫で、うっかり住み続けていたらなにが悪かったんだろうかと考え続けることになったに違いない。ここに移ってほどなく新型コロナウイルスが広がったが、生活上の難点や現実的な不安によってそれ以前のことは考える余裕がなくなり、行動制限が厳しい時期も千景と助け合えた。以前の部屋で外に出られなかったらいっそう鬱々と考え込んでしまっただろうし、引っ越しもなかなかできなかったかもしれない。
今は、一人でいる時間と空間の安心感を存分に享受できている。一人はさびしいでしょう、年を取ったらさびしくなるよ、と言ってくる人はいつまでもいるが、駒子は、子供のころから一人がさびしいと思ったことがなかった。誰かのいる家に帰りたいと思ったこともなかった。いっしょに住んでいるはずの人が帰ってくると言いながら帰ってこなかったあのときだけがさびしいと感じて、それがなくなった今は、一人でいられる部屋が自分にとっては安心してゆっくり眠れる場所なのだと明確に思う。
そのまま眠ってしまいそうだと思ったのに眠れなくて、駒子は起き上がって風呂場へ行った。
大きなガラス窓の外には、夜の道を行き交う人たちの姿がはっきりと見えた。
池袋駅から少し離れた、雑居ビルの二階にあるいわゆる「ガチ中華」の店には、小松原大哉(だいや)と千景が先に到着して、窓際のテーブルにいた。
「話しかけてくる人は詐欺です、ってすごいストレートすぎる」
席に着くなり駒子は笑った。
駅から店までの五分ほどの道には、頭上に並ぶスピーカーから違法な客引きに対する注意のアナウンスが流れ続けていた。
「そのくらいはっきり言ってくれたほうがわかりやすいんだよ」
「人を見たら泥棒と思え、って最近あんまり言わへんか」
千景は先に着いていたのに窓際が好きな駒子に窓側の席を空けてくれていた。
駒子の向かいには、小松原大哉が妙にかしこまった正しい姿勢で座っていた。
「久しぶりー。元気?」
駒子が脱いだコートを椅子の背にかけつつ言うと、大哉は軽く頭を下げた。
「今日はほんと、ありがとうございます。遅い時間に……」
他人行儀な挨拶を述べる大哉は、衿にしっかりアイロンがかけられていることがわかる白いシャツに素材のよさそうなグレーのセーターを重ねていた。短めに整えた髪も色白の手も、小学校のときから印象が変わらない、と駒子は思った。小綺麗でそつがない。
「遅いのは私の仕事の都合だから。私が最後になっちゃってごめんね。こちらは清水千景さん」
「あっ、さっそくお話うかがいました。同じマンションに住んでて助け合ってるって」
駒子は仕事の引き継ぎが長引いて出るのが遅れ、電車で焦りつつも、千景なら初対面の大哉と二人でも気にせずにしゃべっているだろうと心配はしていなかった。十分ほどのあいだに、千景の住むマンションに引っ越した経緯は説明し終わったようだ。
「そうそう、ほんとに千景さんのおかげで楽しく生きられてる」
「なんや、大げさに。こちらこそやで。まあ、でも、中高年女が生きていくには助け合いがいちばん大事やからね」
千景が言うと、大哉が大仰に声を上げた。
「ああー、いいですねえ! そういうドラマ、作りたいんですよ」
笑顔の大哉を前に、千景と駒子は一瞬顔を見合わせた。
「まあまず、注文しようよ。ビール?」
「うん、青島で」
「あ、私もそうしょうかな。大哉さんもそれでいい?」
「私はお酒が飲めなくて……。ウーロン茶で」
「はい。麻辣ピーナッツおいしそう。皮蛋と、こまっくは羊好きやんな」
QRコードを読み取り、千景は自分のスマホでさくさく注文を入力していった。
大哉は遠慮がちにいくつか希望を言いつつ、店内をきょろきょろと見回していた。
「なんか、非日常感があっていいね。たまにはこういうお店も」
広めのフロアを囲むように四川料理や湖南料理など四つの店のカウンターがあって、どの店の料理もスマホから一度に注文できるようになっていた。スタッフは皆中国人で、満席に近いテーブルの客たちは、日本人と日本に住んでいるらしい中国人と半々といったところで、日本語と中国語の会話やスタッフを呼ぶ声が混ざり合って反響し、賑やかだった。
「大哉はいつもどういうとこに行ってるの? いい店に行ってそう」
「いや、普通だよ、普通。新しいとこや普段行かないようなとこって入りにくくて」
「食べもの、保守的なタイプ?」
千景が聞いた。
「あっ、そうですね。原田さんも清水さんも知らない食べものどんどん頼んじゃうから、正直すごいなって」
「もともと、おいしいもの食べに行く友達つながりで知り合って。ここもそうだけど、メニューが多いところは何人かいないとそんなに食べられないじゃない?」
「そうだけど、原田さんと清水さんがいなかったら定番ぽいもの頼んじゃうな。餃子とチャーハンとか。それに、今は外食っていっても、仕事の合間にとにかく早く済ませられるとこに行くか、家族だと子供に合わせるから」
「子供、何歳だっけ?」
「五歳と三歳」
「ああ、それはしゃあないね。今日は、遅なってだいじょうぶなんですか?」
「ええ、妻には来週は自分が友達と出かけるからって交換条件で」
「ドラマのプロデューサーでしたっけ」
「今は制作会社で企画チームにいます。プロデューサーや演出家、脚本家との調整役的な仕事がメインで」
青島ビールの緑色の瓶とグラスが三つずつテーブルに置かれた。
(つづく)

