いろいろな記憶が各地に散っている

高価な水着だった。

1メートル泳いで1万円くらい。それでも、

「カリブ海で泳いだわ」

「うん、うん」

キューバ・リブレを飲みながら笑い合った。コーラにラム酒を入れたカクテルだ。

水着はその後着用されることもなく、今も箪笥の奥に眠っているだろう。テレビにカリブ海が映れば海の青さと妻の悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。つまり、いろいろな記憶が各地に散っている。それを見るのが楽しいような、苦しいような……。

とりあえずは、このくらいしか書けない、書きたくない。90歳の独り暮らしにとって病身の妻は重い存在であり、エッセイを綴るならば当然触れねばならないことのように思われるが、しばらくはカリブ海でお許しいただきたい。ご容赦に感謝したい。いつか実情と心境を綴るときもあるのだろうか。この年齢では……こっちも危ない。

※本稿は、『90歳、男のひとり暮らし』(新潮社)の一部を再編集したものです。

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90歳、男のひとり暮らし』(著:阿刀田高/新潮社)

突然始まった単身生活。

モットーは「“まあまあ”でいいじゃないか」。

簡素に食事を調え、落語は読んで鑑賞、旧知の場所を訪ね、亡き人の思い出に親しみ、眠れぬ夜は百人一首を数える――迫りくる老いを受け止めながら日々を軽やかに過ごすコツを伝授し、人生の豊かさを再認識させてくれる滋味絶佳の老境エッセイ。