近所の食堂が開いているうちに帰りたくて、ハルが荷物をまとめていると、原稿を読み終わったのか百合川がやってきて、開口一番、きみはほんとにロマンチストだな、といった。

 その言葉の真意を測りかねたのでハルはたしかめるようにきいた。

「あまりよくなかったですか?」

「わたしは好きだよ。きみらしくてね。もともとの事実は単純だ。台湾人と日本人、しかも女学生同士が恋に落ちて、まわりの妬みと差別のなかで引き裂かれる。明日子は内地の学校に編入し、秀玲は学業を続ける希望を断たれた。でも、ふたりにとって、問題は差別だけではなかったんだ。わたしも、きみもそうだろうけれど、『家』が大きな問題なんだ。明日子がどうなったのかはわからないが、少なくとも秀玲は結婚を拒絶して家を飛びだした。学校を中退して仕事もないまま家をでた台湾人の女がひとりで生き抜いていくのは、並大抵の闘いではなかったと思うよ。状況はちがえど、蔡家の令嬢であるわたしも、内地からきたきみも、女として生まれた以上、『家』との闘いは避け難いものだろう?」

ハルは無言でうなずいた。百合川がいっていることはハルにもよくわかった。それは、自分自身の経験でもあったし、妹の話をきくなかでさんざん感じてきたことでもあるから。

そっとハルの肩に手を置いて百合川は言葉を続ける。

「きみの小説のなかでふたりが汽車に乗るのはまだ夜が明ける前、闇のなかだ。これほど比喩的な描写があるあろうか。つまり、わたしたちは明けない夜のなかにいる。けれど、先はわからなくても手を取りあって汽車に乗りこむことにはたしかに希望がある。わたしだって憧れるよ。小説という方法で、現実では結ばれなかったふたりを、それぞれの経験を経たあとに再会させるのだから、きみはほんとうに恥ずかしくなるくらいのロマンチストだよ。わたしには、絶対無理だね。でも、人間への信頼を決して見失わない夢見がちな筆致こそ、わたしが書き手としてのハルに期待していることなんだ」

 予想もしていなかった優しい言葉に動揺しながら、ハルは言葉を返す。

「それじゃ褒められているのかけなされているのかわかりませんよ」

もちろんそれが百合川の心からの褒め言葉であることはハルにもわかっている。

あたりがすっかり真っ暗になって、帰り支度を終えたハルが席を立つと、後ろから百合川の声がした。いつもよりずいぶんと控えめな声だ。

「なあ、ハル。よかったらでいいんだが……」

 

(続く)

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