
夢の外側 12
6 愛される彼女(承前)
「光太朗(こうたろう)にも母との関係は話してたし、向こうの両親も、うちの家族が複雑そう、光太朗の家族みたいな仲のいい関係じゃないってことはそれなりにわかってくれてた。でも普段の私がいつもつらいって感じではないからさ。母と電話で会話することもあるし、子供が小さいときには実家に連れていったこともあるしね。だから、結婚式を私の希望でやらへんかったことも、千景(ちかげ)ちゃんのご両親もやっぱり娘の結婚式は見たかったと思うよ、って何年か経っても言われて」
「なんとなく想像できるな」
駒子(こまこ)は、ボルトを留めながら話す千景を見つめた。
自分ももし結婚することがあったら、結婚式をするなんて話になったら、母や何年も会っていない兄、父が死んでからいっそうぎくしゃくしている伯父伯母たちを呼ぶのか呼ばないのか、想像しただけで気が重いと考えていた。実際には、結婚式も結婚も機会がないままだったが、誰かとつき合うとき、友人の結婚式に出席したとき、心のどこかにうっすらと、他人に自分の家族の関係をわかってもらうことは難しいだろうと、不安のような負い目のような感情が漂ってしまう。そしてそれはしばしば、家族や身近な人のことを否定的にしか考えられない自分は誰かといっしょに生活することなどできないだろうという、負の感情の渦みたいなものにつながっていく。
千景は、元夫やその家族を気遣う話し方で続けた。
「ご両親ともっと仲良く、までは言わへんかったんやけどね。いろんなご家庭があるから仕方ないこともあるわね、ってくらいで。でも、私が母や父に対して思ってる複雑なあれこれは伝わらへんやろうな、とは思ってた。伝わらへんくて、当たり前やけどね。私が母や父と会わせないようにしてたんやし。義父母は私に対して母や父のことを悪く言うことはなかったから、それだけでもありがたいと思ってる。
光太朗は、そもそも、私があんまり女の子らしくないところがよかった、って人で。友達とよう飲みに行ってた店の花見会で知り合ったんやけど、私のいわゆる女子力のなさっていうか、男の世話をあれこれやらなくて、気を遣わなくていい感じだったから好きになったって言うてて」
「いや、千景さんは人の世話すごくするほうだよ。気を遣わなくていい感じになるのは、千景さんがあちこちに気を遣ってるからだよ。話も聞いてくれるし、今だってこうやって家具の組み立てもほとんどやってくれてて」
「まあ、これはやりたくてやってることやから」
「なんて言ったらいいか、華やかでかわいさを全面に出した女子力じゃないけどさ」
「こまっくこそ、そんな気を遣った言い方せんでも」
千景は軽い調子で笑ったが、駒子は笑えなかった。
補強用のパーツを手分けして取り付けつつ、千景の話は続いた。
「私のほうも、光太朗のちょっと抜けてるとこっていうか、はっきりいうたら人の裏表に全然気づかんところが、気楽でええなと思ったわけやからね。光太朗とあの両親じゃなかったら、子供育てるのもっと大変やったと思うし、そもそも子供産んだりせえへんかったかもわからんし。でも、冗談というか軽口なのはわかってるけど、ときどき、千景は母性がないから、って言うのはひっかかって」
「えー、それはひどくない?」
ボルトを回していた手を止めて、駒子は声を上げた。
「いやいや、そこだけ聞くとそうなんやけど。彼としては、私が気楽になるように言うてるつもりやったんよね、無理していい母親にならなくていいよ、っていう」
「うーん……」
千景自身が元夫のことを悪く思いたくないのだろうとわかるから、駒子は言い淀んだ。
「ああ、なんかごめんな、自分の話ばっかりして。こないだのごはん会のときに、なんていうか、嘘ついたみたいな気持ちが残ってもうてて」
先日のごはん会の光景を、駒子は思い浮かべた。あのとき駒子も、隠し事をしているような気持ちがなんとなくあった。ほんとうの気持ちを言わずに、どこかで聞いたような一般論を並べているだけだった。
「私はなんで結婚したんやろ、なんで離婚したんやろ、って、ずっと思ってるねん。ほんまは、実家から逃げて知ってる人のおらん東京に行きたかっただけかもわからんし、そんな気持ちやったから離婚することになったし子供も育てられへんかったんちゃうか、って気持ちが、やっぱり消えへんなあ」
千景は溜息をついて、思い出したように床の説明書とボルトを取り上げた。
「ごはん会で話してたときにも考えてたんだけど」
今日はもう少し話してみようと、駒子は思った。
「私、家から離れたくて結婚したかったんだと思う。どこかでずっと結婚カードを入手したかったから、ここに引っ越す前につき合ってた人ともなかなか別れられなかったんだと思う」
新しいシェルフに入れ替える予定のキッチン脇の棚は、一つ前の家でも、その前の家でも使っていたものだ。新しく買う予算もなかったし、捨てるのももったいない気もしたし、捨てるのに運ぶ労力も考えると、もう少し使おうと思って何年も経った。
また引っ越すかもしれないという気持ちもどこかにあって、実際、前の家でいっしょに暮らし始めたときに相談したときも、生活が落ち着いたらもう少し仕事先に近いところに移りたいからそのときに他の家具と合わせて考えよう、と彼は言ったのだった。
結局、中途半端に高さが合わなかったり隙間が空いたりするまま使い続けてきた。
思い切って買い替えようと決められたのは、ここに当分は住み続けたいと思えたし、引っ越すたびに微妙に合わなくなるサイズのものを組み合わせて使う不便さや見た目のちぐはぐさが日に日に気になりだしたからだった。気になりだすと、今までだって気になっていたし生活の中で小さな手間や違和感が積み重なっていたのに、考えないようにしてきただけなのだと思った。ぴったりのいい家具に買い替えたり、広い家に引っ越したりする余力がない自分のせいなのだから仕方がない、と思っていたのだ。さらには、インテリアのセンスもなく買い替えたところでおしゃれな部屋にできるわけでもないのだから、自分にはこれくらいがちょうどいいのだ、と思い込んでもいた。
「口に出してそう言ったことはないつもりだったけど、ここに引っ越す前にいっしょに住んでた、というか、住むつもりだった人も、私のそういう他人に頼るようなところや執着みたいなのを感じてたから、帰ってこなくなったんだろうな、って」
言葉を継ぎ足し継ぎ足し、という感じで駒子が話すと、今度は千景が強い声を出した。
「いやいやいや、こまっくがそこまでなんもかも自分のせいにすることないで。純粋な愛だけで結婚する人どれだけおるん?て感じやし、こないだの話に出てたみたいに共同生活者として対等にしっかり話し合ってから結婚する人もほんまにおる?って思うで。こまっくの相手の人がもしそれに近いことを思ってたとしてもやで、別れよう、とか、いっしょに住もうと思ってたけどやっぱり無理やったからちょっと考え直そう、とか、言うて話し合えばよかったやん。て、その人には言いたい。会うたことないけども」
千景の言葉に頷きつつも、駒子はまだ自分がほんとうの気持ちや当時のことを話せていない気がしていた。自分に都合のいい情報ばかり伝えている気がした。
「私、話し合うってどういう感じなのか、そもそもわからないのかも」
自分自身を探りながら、駒子は話した。
「その人に限らず、相手の機嫌が悪くなるのが怖いから、話す前にやめてしまう。でも、ほんとうに機嫌が悪くなったかどうか、わからないんだよね。今、振り返って考えてみたら。機嫌が悪くなるよりずっと手前のところで、機嫌が悪くなりそう、きっと機嫌を悪くさせてしまう、って考える癖がついてしまってて、声が出てこなかった」
それが駒子と家族との関係に起因していると、千景にはなんとなく伝わっているだろうと駒子は感じていた。千景の育った環境も似たところがあるようだから。こういうことも伝わっていると勝手に判断してしまう前に言葉にして確かめないといけないのかもしれない。だけど、結局それも言葉に出さずに、別のことを言った。
「なんで、家族とか近い人ほど話ができないんだろうね」
「せやなあ」
千景はそれだけ言って、シェルフは完成した。
日曜の夜の焼き鳥屋は満席で、駒子たちは入り口近くの小さなテーブルについた。壁際に千景と将(しょう)が並んで座り、その向かいに座る駒子は、初めて、彼らの顔が似ていることに気づいた。顔だけでなく、ちょっと猫背気味の肩や姿勢もなんとなく似ていた。
焼き鳥の他に野菜を使った副菜も充実していて、しらすと葱のサラダやごぼうの唐揚げなどをつまみながら、将の勤め先で近々組織改編が予定されていてどの部署になるか心配だという話や光太朗が先月インフルエンザで寝込んでいた話や千景と駒子たちのごはん会の話をし、それから駒子の職場の話をした。
「音楽教室かあ。ぼくもなにか楽器ができたらと思うことはあるんですけど、実際にやってみるのはなかなかハードルが高くて。なにか、おすすめの楽器あります?」
「向き不向きがありますからねえ。こんな音楽が好きっていうのがいちばんだけど、楽器を買えるか、家に置けるかも重要ですね。ドラムなんかだとやっぱり練習する場所が限られちゃうから」
確かに、と頷いて将はジンジャーエールを飲んだ。酒が飲めないわけではないようだが、一杯目にビールを飲んだだけであとはノンアルコールだった。
「将、大学生のときDJやりたいとか言うてたやん」
「ああ、あれはまあ、かっこよく見えたってだけで。友達のイベントで何回かやらせてもらったんだけど、あれ? これ自分が曲かけてるあいだは人としゃべったりできないじゃん、って」
軽口を交わしながら話す千景と将は、駒子から見ればむしろ仲のいい親子に見えた。親は離婚して離れて暮らしていることと仲がいいことは矛盾しないが、数時間前に千景に聞いた、子供に接することがつらくなって家を出たという事情がそこにあるようには見えない。と、いうのは、表面しか見ていない感想なんだろうなあ、と思いながら駒子は二杯目のレモンサワーを飲んだ。
「初心者はギターが無難ですかね」
「そうですねえ。弾き語りできるのはいいなって思いますよ。最近は小さめのギターも充実してて、キャンプに持ってったりもしやすいし。って、私はキャンプも行かないしギターも弾かないから、講師さんの受け売りですけど」
「どっちかっていうとうちはみんな趣味がアウトドアだよね」
光太朗は十代のころはサッカー部で今でもフットサルのチームに入っているのだという。将は休日にはロードバイクで遠出をし、妹の未来(みく)は最近は登山と鉄道の旅に出かけているらしい。
千景がトイレに立ったとき、将が駒子に言った。
「あの、母はがんばりすぎちゃう人なんでちょっと心配なんですよ。今日も、駒子さんの手伝いがなかったら仕事に行ってたと思うし」
将は同年代の男性よりも、落ち着いた表情をしている、と駒子は思った。
「私のほうが千景さんにお世話になってばっかりで、私が近くに住んでることでなにかの足しになるならいいんだけど……」
「そうなんですよね、つい人の世話をしちゃう人だから。駒子さんのことはよく話に出てくるから、今のとこに住んでるのはいい感じなのかなって思ってます」
すんなりと母を気遣う言動ができる将を、駒子は少し羨ましくも思い、千景が光太朗とその両親とだったから子供を育てられたと話していたのを思い出しもした。
「うん、千景さんも楽しんでくれてるんなら、今のところに長く住みたいなって、今日棚を組み立てながら考えてて」
「よかったです。母の近くに誰かいたほうがいいと思ってるんですけど、ぼくたちとはいっしょに暮らせない人だから……」
穏やかな表情を崩さずに将が言って、駒子は飲みかけていたグラスを持つ手を止めた。やっぱり自分が想像できていない膨大なできごとと時間が千景にはあるんだと思った。
そこに戻ってきた千景が、
「なんや、私の悪口言うてたんちゃうやろなー」とベタなことを楽しそうに言って、駒子は少し安堵した。
翌週は火曜が休みで、駒子は、母から言われた荷物の片づけの算段に、元花屋だった建物を訪れた。天気のいい日で、今年の冬ももう終わりかという暖かさだった。
商店街は、店が減った上に、残っている数少ない店も昔の名残で火曜が休みのところが多く、歩いている人はまばらだった。
普段はここに住んでいない駒子が元花屋のシャッターを開けても、声をかける人もいなかった。
地元に帰ったついでなどに、一階の店舗だったところに入ってみることはあったが、二階に上がるのは数年ぶりだった。
今では倉庫状態の店舗の奥にある急な階段を上がると、二階は埃っぽくてくしゃみが続けて出た。積み上げられた段ボール箱やプラスチックケースの間を抜けて、商店街に面した窓と雨戸を開ける。数か月間閉じられていた部屋に乾燥した空気が流れ込むのが心地よく感じられた。
窓から下を見ると、店名の入ったテントが色褪せてところどころ破れたまま残っていた。
しばらく前に、千景経由で受け取ったザ・ラストサウンズのダイスケが書いたエッセイを、駒子は思い返した。ダイスケと、映画ではジョージにあたるドラムのミッチーがリリーのことを語り合う部分だ。
〈リリーは、そこにいるだけでまわりの空気を変えてしまう女の子だった。
きっと神さまに愛されている女の子なんや、とぼくが言うと、ミッチーは、そりゃあ天使なんだから、と言った。その天使が、ぼくらの作った曲を素敵だというのは、神さまに褒められたってことじゃないか、とミッチーは続けたが、それはさすがに自分本位すぎへんか、と返した。神さまに褒められているとまでは思わないものの、それでも、リリーが曲を褒めてくれるたびに、ぼくたちが祝福のように感じていたのは間違いない〉
何度読んでも、ここに書かれているリリーという人が、自分の母、真莉(まり)だとは思えなかった。
神さまだとか天使だとか、当時にしても歯の浮くような言葉遣いは、彼らも洒落的に、わざと話していたことは書かれている。
〈そんなロマンチックな少女漫画みたいな言葉を思わず使ってしまうほど、リリーは不思議な魅力に溢れていた〉
この本を初めて読んだ小学生のときに自分がどう思ったのか、今となってはおぼろげにしか思い出せない。自分が普段読んでる少女漫画はそんな感じじゃないけどな、と思った気はする。
確かに、父が母に惚れ込んで結婚したということは、周りの誰もが言っていたから、若いころの母は魅力的な存在だったのだろう、とは考えていた。父自身も、母も、自分たちのなれそめを繰り返し話していた。父が仕事先の近くでたまたま通りかかった花屋の店先で母に一目惚れした。それは、ダイスケが書く話とほとんど同じかもしれなかった。母も父も、ずっとお互いを「真莉ちゃん」「カズくん」と呼び合っていた。そして、「真莉ちゃん」には「カズくん」が、「カズくん」には「真莉ちゃん」が特別な存在で、出会えたから人生が変わったのだ、今幸せなのだ、とよく言っていた。結婚して何年経ってもそんなに仲がいいなんて羨ましいわねえ、よほど特別な人だったのねえ、と近所の人や同級生の母親たちが言うのを聞いた。そんな状況だったから、この本を初めて読んだときには、母の昔の姿だと思ったのかもしれなかった。
日の光が差し込む部屋を見回してみた。棚が置かれていた跡が残る壁に、板が縦にひび割れた凹みに目が留まった。この凹みができたあとは、食器棚が置かれて隠されていた壁だった。
「なんで! なんで! なんでなのよ!」
駒子の頭に、母の声が響いてきた。
「そんなに、お母さんのことが嫌いなの! 駒子は、私のことを苦しめたいの! なんで!」
確か小学校の四年生のときだった。
こたつの上には、駒子がその数日の間に作ったリボンの花があった。店で花束のラッピングに使うリボンで、安価な赤やピンクではなく、真莉が資材の問屋で探してきた中間色でやわらかい手触りのリボンだった。そのリボンの花を使った華やかなラッピングはあのお花屋さんの花束はセンスがいい、と買いに来る人たちの理由の一つだった。
小学校に入ったころから、駒子はそのリボンの花を作るのが日課になっていた。図画工作が得意だった駒子は、その作業が嫌いではなかったが、この日は作らないで友達の家に遊びに行き、家に帰ってきても学校の図書室で借りてきた魚類の図鑑を見ていた。客が途切れた時間に階段を上がってきた真莉はその姿を見るなり、なぜ約束を守らないのかと激昂した。
駒子の手から取り上げた分厚い図鑑を勢いをつけて駒子のうしろの壁に向かって投げた。無言で駒子の横を通り、図鑑を拾い上げたかと思うと、それを壁に何度も叩きつけた。
駒子は凍り付いて動けないまま、こたつの前に座っていた。それまでにも花を作らない日はあったが、ここまで母が激昂したことはなかった。叩きつけられる図鑑が変形して学校で怒られて図書室の本を二度と借りられなくなったらどうしようという恐怖もあった。
「なんで黙ってるの! 言い訳ぐらいしなさいよ! 花なんか作ったって無駄だと思ってるんでしょ! 私のこと馬鹿にしてるのよ! だからやらないんでしょ! 黙ってるんでしょ!」
真莉の叫びはだんだん聞き取れない言葉になり、なにか言ったあと、その場に座り込んで泣き出した。うわあうわあ、と子供みたいな泣き方だった。子供みたいな泣き方、と十歳の駒子は思った。
ごめんなさい、となんとか小さな声が出た。しかし、真莉は、謝ればいいと思っているのか、と泣き続けた。
気がつくと、帰宅したらしい父・和彦(かずひこ)が階段を上ったところに立っていた。
「カズくん」
と、真莉が涙でぐしゃぐしゃになった顔で見上げると、和彦は駆け寄って彼女を抱きしめた。
「だいじょうぶだよ、真莉ちゃん」
和彦は真莉の肩や髪を撫でた。
そのあとどうしたのか、駒子は覚えていない。兄は家にいなかったと思う。兄はなるべく家にいないようにしていた。祖母は、たぶん、いた。同じ部屋の隅に座って、駒子を見ている姿が記憶の中にある。ただ、祖母がなにか言ったのか、それは覚えていない。
それから、翌朝、駒子が父母の様子をうかがいつつ布団から出ると、狭い台所のテーブルで父母と祖母が朝ごはんを食べていたのも覚えている。母と祖母は既に一度店に下りて開店準備をしたあとで、何事もない、いつもの朝の光景だった。窓際で寝ていた兄に、早く起きなさいよ、遅刻するわよ、と明るい調子で声をかけた。駒子も早くごはん食べなさい、と明るい声で言った。
いつもと同じだった。真莉がどれだけ叫んでも物を壊しても泣き崩れても、寝て起きると何事もなかったように、明るい朝が始まるのだった。
店に駒子の同級生の母親が買い物に来たあとは、真莉は決まって駒子に、駒子だけ体操服みたいな格好をしていて恥ずかしいとか、他の女の子たちみたいにかわいくなりたいと思わないのかとか、愛想を良くしないと人に好かれない、などと冗談交じりの軽い口調で言った。そういうとき、母の機嫌がいいのか悪いのか、駒子は推測するのが難しかった。声の調子や表情などをうかがいながら、どう返事をすれば機嫌が悪い方に転ばないのか考えたが、法則は見つけられないままだった。
祖母もそんな場面に居あわせることが多かったが、たいていは、そうねえ、まあねえ、と曖昧な言葉をつぶやくくらいだった。祖母は、母のように怒ったり大きな声を出したりすることはなかった。ただ、自分がどう思っているのか言うこともなかった。孫を怒鳴りつけて泣く娘を、どう思っているのか。
この店を閉めたあとも、長野に移住を決めて父と二人で住んでいた家を売ってしまっても、母はこの場所を借り続けている。電気料金も水道料金も払い続けている。理由を母から聞いたことはない。荷物を置いておくところがないと困るでしょ、とは言っていたが、それは理由ではない。
二十年前、祖母の通夜の会場で、ほとんど会うことのなかった母方の親戚たちが話しているのが耳に入ってきた。祖父が死んだとき、この生花店を潰すことは絶対に許されない、と祖母は言ったらしい。
おとなしいけど芯の強い人だったのよねえ、とその親戚は故人を懐かしんでいた。いつも穏やかでやさしい人だったけど、頑固なところがあってなあ。そうそう、てこでも動かないっていうのは松代(まつよ)さんのことよね。苦労したけど、孫にも恵まれて勝(まさる)さんの遺した店を守れて、よかったんじゃないかね。
誰のことだろう、と思いながら大学生だった駒子は彼らと背中合わせに座ったまま、よく知らない人たちがやってきては帰っていくのを眺めていた。祖母とは長くいっしょに暮らしてきたが、ごはんを食べなさいとか風呂に入りなさいとかいった生活上必要な会話くらいしかほとんどしたことがなかった。たまに、明日から夏休みね、卒業なんてもうそんな時期なの、と近所の人の挨拶と変わらないことを言うことはあったが、個人的な話はほとんどしたことはなかった。
個人的な話。
埃の積もった段ボール箱やプラスチックケースを開けて中身を確かめながら、駒子は自分の頭に浮かんだ言葉を反芻した。
家族って、個人的な話をするものなんだろうか。
窓際に積まれた段ボール箱の一つを開けると、アルバムが入っていた。動物のキャラクターが並ぶ分厚い表紙の、透明のシートをぺりぺりとめくって写真を貼り付ける昔のアルバム。十冊ほどが詰めてあった。いちばん上にあったアルバムを開くと、海辺で撮った写真があった。確か駒子が小学校に入ってすぐの年の夏休みに鎌倉へ行ったことがあった。白いTシャツに水色のショートパンツをはいた駒子の隣に、似たような格好の兄、そのうしろに赤いワンピースの母と白いポロシャツを着た父が並んでいる。背景は江ノ島らしい。
どこにでもいる普通の家族だな、と駒子は思った。お父さん、お母さん、子供二人。標準世帯、とか言うんだっけ。
駒子はアルバムも箱のふたも閉じた。どこから手をつけていいかわからない箱に囲まれて、途方に暮れた。
(つづく)

