(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第53回は俳優・映画監督の竹中直人さん。小学生の時から個性的だったという竹中さん。担任からの助言で、私立の中学を受験し無事合格。のびのびと学園生活を送ったそうで――。(撮影:岡本隆史)

自分じゃない人になりたい

竹中直人さんと言えばすぐに思い浮かぶのが、1996年の大河ドラマ『秀吉』かもしれない。

でも私にとっては、彼がまだ青年座時代に主演した『写楽考』(84年)の伊之であり、その後設立した「竹中直人の会」の第7回公演『水の戯れ』(98年)を岸田今日子さんと一緒に観た時の印象が強烈。初対面の竹中さんにそう言うと、いっぺんに打ち解けてもらえた。

インタビューしたその日、竹中さんの創るアートに重要な位置を占める芸術的な漫画家・つげ義春さんの訃報に接した。竹中さんの追悼の言葉は、そのまま竹中さんに当てはまる。

「(彼は)いじけていて、切なくて、いやらしくて、やさしくて、いとおしくて、チャーミングで……『無能の人』を描いた人です」

――僕は横浜市金沢区富岡町、直木三十五のお墓のある町で生まれました。父は横浜の中区役所、母は磯子区役所、共働きの一人っ子でした。小学校は富岡小学校です。通信簿には協調性がない、積極性がないとよく書かれていました。

4年生の運動会の時。僕は走るの速かったんです。走りながら両サイドを見ると誰もいなくて。このまま走ったら一番になっちゃう! と観覧席にいる父に向かって逆走したんです。一番になる事がとてつもなく恥ずかしかった。

小学6年の時、担任の萩原しづほ先生が僕の父と母を呼び出してこう言ったそうです。

「お宅のお子さんはとても個性的ですから、公立の中学ではその個性が生かされないかもしれません。なんとか私立に入れてあげられないですか?」と。

両親は公務員、とてもそんな余裕はなかったと思いますが、父の指導のもと受験勉強を一生懸命やりました。

そして無事、関東学院六浦中学校に入学。のびのびと自由な学校生活を送ることができました。もしも萩原しづほ先生のひと言がなかったら、また別の人生だったかも知れません。萩原先生との出会いがまず第1の転機です。