ある意味でのカミングアウト

小学校の卒業式の日がやってきた。卒業生は私服で参加する子と、これから行く中学校の制服を着て行く子が半々だった。光は中学校の学ランを着て行くという。私は妻と一緒に参加した。卒業証書を受け取り、式の終了時には列になって式場を一周して退場していく。

光は仲間たちに男としてすでに受け入れられていたが、さすがに学ラン姿で卒業式に来るとは思っていなかっただろう。また保護者の目もある。これはある意味でのカミングアウトだ。

光の堂々とした姿を見ながら、私は緊張していた。「人からどう見られるかは関係ない、自分の生き方を生きなさい」と、私は光が幼い頃から言っていた。

でも、私は人の目を気にしていた。なんてダメな親なんだと私は自分が情けなかった。

※本稿は、『性別違和に生まれて-父と子で綴った23年』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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性別違和に生まれて-父と子で綴った23年』(著:松永正訓/中央公論新社)

わが子が性別違和を訴えた。

いきなり学ランを着て学校に行くということに、私の意識は追いつかなかった。

互いの思いを答え合わせのように綴り合い、実子が自分らしさを取り戻すまでの23年間を描いた渾身のルポルタージュ。