日本人移民を救うため渡米

ルツ子と別れて間もなく、梅は佐野佳三と結婚します。佳三は、梅がかつて神奈川県師範学校で英語を教えていた頃の教え子でした。

結婚から3年が経った1900(明治33)年、梅はサンフランシスコの日本人移民たちが差別と貧困の中で苦しんでいることを知ると、彼らを救うため単身渡米します。人種差別や言葉の壁のために、病気になっても治療を受けられず、出産で命を落とす女性も少なくありませんでした。梅は、看護婦、助産婦として日本人たちを救い続けます。

数年遅れて夫の佳三も渡米すると、夫婦で日本人学校を設立し、日本語や日本史を教えながら、6人の子どもを産み育てました。現地の日本人で広瀬夫妻を知らない人はいないというほど皆から頼られ、慕われ、40年の月日が流れます。

57年ぶりにルツ子と再会

太平洋戦争の開戦が迫る1941(昭和16)年2月、梅は佳三とともに日本に帰国すべく、汽船に乗りましたが、寄港したハワイで佳三が脳出血で急逝してしまいます。さすがの梅も気落ちし、住み慣れたアメリカへ戻りました。そして、日米開戦後の1943年に、第二次交換船に乗って今度こそ帰国し、次男のもとで生活を始めます。梅はこのとき75歳でした。

戦争が終わり、世の中が徐々に落ち着きを取り戻してきた1953(昭和28)年、梅はルツ子と57年ぶりに再会を果たします。この出来事は新聞や雑誌でも報じられ、梅とルツ子、養母の3人が、一冊の聖書に手を差し伸べている写真が残されています。

その6年後、梅は91歳で永眠します。桜井女学校で聖書に出合い、人の役に立つ仕事に就きたいと看護学校へ入学した梅は、その夢を十分に叶えたといえるでしょう。