17項目もの苦言を受け取った義昭は…

苦言を受け取った義昭は、案の定、激怒!!

方々に「御内書」と呼ばれる密書を出した。これは、将軍だけが出せる命令書で、義昭なりの本気だった。その内容は、端的にいえば「信長を討て」である。

さらに、先述の大量CC案件で起こりがちなのが、苦言で周囲を味方につけるつもりが、むしろ敵に回ってしまう、というパターンだ。恥をかかされた人間を気の毒に思った人が共同戦線を張り、気づけばメールの送り主が孤立している、ということはよくある。信長は、しっかりこの条件に当てはまってしまった。

(写真提供:Photo AC)

また、このころには、信長の生涯最大の危機の一つといわれる「金ヶ崎の退き口」が発生。妹・お市の夫である浅井長政に離反され、信長はわずか数名の供を連れてほうほうの体で逃げ帰った、という事件だ。これにより、信長の負けが全国に知れ、いよいよ信長包囲網が目立ってきた。

他方、信長もやられっぱなしではいられない性格だ。わずか2か月後には姉川の戦いで長政、および長政と同盟していた朝倉義景を打ち破り、翌年には彼らをかくまった比叡山を焼き討ちにした。

そして、以後数年は戦が続き、歴史上「元亀の争乱」と呼ばれる事態となった。1573年には、ついに信長が義昭を京都から追い出し、事実上、室町幕府が滅亡。義昭は、しばらくの間現在の広島県あたりで亡命政権を保った。