それでも、信長は懲りなかった

信長と義昭の仲はいずれ崩れただろうが、信長がもし人前で恥をかかせるようなやり方をしなければ、義昭を本気にさせることはなかったかもしれない。そして、諸大名や宗教勢力による包囲網はそもそも成立せず、命の危機に瀕することもなかったかもしれない。

さまざまな策略が飛び交う戦国時代、苦言を公開で送ったのはわざとだとしても、恥に対する他人の反応を甘く見積もったのは、信長のミスであろうと思う。

なお、信長は、数年後の1580年にも似たようなことをしている。

そのときの相手は、織田家筆頭家老(最高幹部のようなもの)の佐久間信盛だった。信長は、信盛の過去の失敗を19項目にわたって論い、またしても方々に同じ内容を送った。そして、親の代から仕えたベテラン家臣・信盛を追放してしまった。

信長としては、家臣団に信盛の処遇を見せ、「いかに古参でも成果を出さなければ容赦しない」と伝えたかったのかもしれない。そして、対外的には「きちんと理由があって追い出すのだ」と示したつもりであっただろう。

しかし実際には、信長の行為は家臣たちの精神不安につながったといわれる。

特に顕著だったのは、明智光秀だ。

信長は信盛を追放する際、例の書状に「光秀の働きに引き換え、お前はなんだ」的な内容を書いていたのだが、名指しで褒められた光秀は気が気ではなかった。光秀は、「筆頭家老の佐久間様ですらこうなら、次に比較の対象が現われたとき、自分も同じ道をたどる」と考えたといわれる。それが本能寺の変につながったという説が有力だ。

人に恥をかかせないのも、組織の長の器量なのかもしれない。

※本稿は、『世界を変えた「凡ミス」図鑑:昔の人たち、やらかしすぎ!』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

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