
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
泳葉は海辺の海女小屋を目指した。そこに母がいるか、帰ってくるはずだ。山を下る道の左右は草や灌木(かんぼく)が茂みを作っていて、そのまま海まで続いている。
父の亡骸を背負って歩く、足が止まった。道の五〇メートルほど先に、緑の鉄兜と軍服、黒い半長靴に身を固めた数人の男たちがいる。警備隊の兵士だ。
「そこを動くな」
指揮官らしき男が怒鳴り、拳銃を向けてきた。他の兵士は素早く左右に広がり、カービン銃を構える。
「山から下りてきたということは、赤(パルゲンイ)か」
指揮官の声に、泳葉の鼓動が早まる。
「心配ない。思想の転向を認めれば、すぐ釈放される。両手を上げて、こっちにゆっくり歩いてこい」
泳葉は社会主義を奉じるどころか、中身すら知らない。だが、決めつけられた以上は二通りの未来しかない。ここで射殺されるか、連行された先で処刑されるか、だ。
泳葉は涙を流した。大事なものを捨てねばならなかったからだ。
アボジ(父さん)、と泳葉はつぶやく。
「ゴメン。ホンマニ、ゴメン。堪忍ヤデ」
泳葉は背負っていた父を振り落とし、右へ跳ねた。灌木の枝を折りながら茂みに飛び込み、突き抜ける。転がった勢いのまま腰を上げ、走る。怒号と銃声が追ってくる。道なき森を泳葉はひたすら進む。
下ればいい、と泳葉は自分に言い聞かせる。ここは済州島だ。どこにいても、斜面を下っていけば海に出られる。道なき道を駆け、細いせせらぎを飛び超え、数時間ほどで視界が開けた。
たどり着いた海は、静かだった。夏のころ眩しく輝いていた水面は、秋のゆるやかな陽を穏やかに照り返し、ゆっくり波打っている。見渡す限り、人影はない。
泳葉は、よろめきながら砂浜を歩く。道なき森を走り通してきたから、身体がばらばらになりそうなほど疲れていた。
掘っ立て柱に屋根と壁板を張っただけの簡素な小屋があった。戸を押し開ける。薄暗く、人はいなかった。泳葉は一歩入ったところでくずおれ、うつぶせに倒れ込んだ。頬を押し当てている床板はやや湿っていた。魚介と埃の感触が入り混じった、いやなにおいが鼻を衝く。不快を覚えるのは生きている証拠だ、と安堵する。鼓動が落ち着いてくる。泳葉は呼吸のほか微動だにせず、波の音を聞き続けた。
それからどれくらい経っただろうか、ふいに短い悲鳴が降ってきた。泳葉はのろのろと体を起こし、その場に座りこんで顔を上げる。戸口には、茶色い水着(ムルオッ)姿の潜嫂が三人、立っていた。あんぐり口を開けている一人が、今しがたの悲鳴の主だろう。
母は無言で海女小屋に入ってきた、アワビやサザエで膨らんだ網の袋を置き、二人の潜嫂に「すみません、息子と話をさせてください」と言った。潜嫂たちがそれぞれの網袋を小屋に置いて出ていくのを見届け、母は泳葉の前にしゃがみこんだ。
「どうした」
今朝も聞いていた潮錆びた母の声が、無性に懐かしく感じた。泳葉は膨らみかけた涙を指で拭い、口を開く。
「山部隊に襲われた。主人とアボジ、殺された。俺、アボジを背負って山を下りてた。途中、警備隊がいて、赤って言われた。俺、アボジ捨てて、逃げた」
母は何も言わず、焼けたむき出しの両腕で息子の頭を抱きこんだ。
「アボジはまた迎えに行こう。おまえはよく生きていてくれた」
強い子に育ったな。続いた言葉に、泳葉はもう涙を抑えきれなかった。
それから、泳葉は母に言われるまま海女小屋を一歩も出なかった。泳葉の顔を知る警備隊の兵隊たちは今も島の捜索に出ているはずで、見つかったら今度こそ射殺されるからだ。母や仲間の潜嫂が持ってくる干魚や飯を食い、あとは床板の節を見つめたり木目を数えて過ごした。
三日目の夕刻、母が海女小屋に来た。水着ではなく、古びた厚手のシャツとウールのズボンを着ていた。毎年の秋冬に使う、母の普段着だった。
「船の手配ができた。おまえは日本へ逃げろ」
泳葉はとっさに意味が分からなかった。済州島の海はアメリカの駆逐艦が封鎖しているからだ。
「伝手(つて)で、もう何度も密航者を運んでいるという船を見つけた。密航だって危ないが、死ぬまで海女小屋に隠れているよりは、ましなはずだ」
「オモニ(母さん)は」
か細い声で問うと、母は首を横に振った。
「支払える金が、一人分しかなかった」
「金って、それは」
つまり、母が潜嫂をやって稼ぎ、父が倹約して貯めたものだ。どれだけ稼いでもインフレーションが追いかけて来るから、泳葉にとっては豊かさの指標というより両親が刻んだ人生の痕跡だった。
訊けば、母は泳葉一家が住んでいた地主宅へ行って通帳を回収し、街の銀行で引き出してきたのだという。その豪胆さに、いまさら泳葉は驚いた。
「山のほうには長くいられない。アボジは見つけられなかった。また探しに行く」
見つかるのだろうか、と泳葉は暗い思いを抱いた。警備隊が名もなき死体を持って帰るとは思えないが、山の獣に食われているかもしれない。もしかすると母は無残に食い荒らされた父を見つけ、息子には黙っているのかもしれない。
「オモニは、いつ日本に来るの」
「金ができたら。だが、これだけは言っておく」
母は泳葉の手を取り、自分の両手で握り込んだ。
「おまえは、この島に帰ってくるな。あたしと再会しようなんて思うな。墓のことも気にするな。安全な場所で、自分の人生を送れ」
「イヤヤ」
いつか、済州島に帰りたくないと言った時と同じ言葉が泳葉の口から洩れた。その時とやはり同じく、母は息子の横っ面を張り飛ばした。
「おまえはまだ二〇歳にもなってない。後ろなんか見るな、前を見ろ」
泳葉は母の言葉に逆らうつもりだった。だが、この言葉と潮錆びた声だけは、死ぬまで忘れまいと思った。 〈つづく〉
