光秀は秀吉本軍と戦うまでもなく…
この説を唱えているのは、馬部隆弘(中京大学教授)です。
馬部教授は古書店から入手した秀吉書状により新説を唱えました(馬部隆弘「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」『戦国史研究』九十一号)。
それによると、秀吉は合戦当日の日中、山崎から約12キロも離れた富田(大阪府高槻市)で書状を書いており、光秀の勝龍寺城(京都府長岡京市)からの出撃を知って、急いで兵を出しても夕方の合戦には間に合わなかったというのです。
光秀は秀吉本軍と戦うまでもなく、池田恒興らの軍勢に敗れたということになり、秀吉方の強さと共に光秀方の脆さというものが窺えます。
