綾香とみのりは明治十年創業の老舗和菓子メーカー「まんげつ」に勤めている。社名を表すような明るい色合いの、黄身餡をたっぷり使ったどら焼きが看板商品のこの会社は、他にも饅頭やカステラ、季節の和菓子などを製造・販売している。

 お歳暮等でギフト需要が高まる年の瀬はいわゆる繁忙期で、少しでも社内の殺伐とした空気から逃れようと、綾香はひとけのない屋上でひっそりと昼食をとることが多かった。おそらくみのりも似たような気分なのだろう。

 いや、もしかしたら理由は忙しさだけではないのかもしれない。綾香は劣化して細いひびが入った床材や、あちこち汚れて錆びついた古い屋上設備をぼんやりと見つめた。

 綾香が入社した頃、竣工から間もないこの本社ビルは、どこもかしこもピカピカだった。ビルのエントランス上方に設置された満月をモチーフにした丸い大きなステンドグラスも素晴らしく輝いていて、見るたびに胸が高鳴った。

 それから二十年が経ち、美しかったビルは水漏れやエレベーターの故障、空調トラブルに見舞われ、細かな修繕工事が欠かせない状態になった。来年には給排水管の寿命がくるらしく、社長は修繕費の捻出に頭を抱えているという。エントランスのステンドグラスは清掃がとても大変で、なにか特別な行事でもない限りはくすんでいる。

 そしてメモ帳片手に社内をうろつく新入社員だった綾香も、同期が一人辞め、二人辞め、三十歳前後で櫛の歯が欠けるようにぼろぼろと辞め、しかし自分にはなぜか辞めるきっかけが訪れず、悩みながら働き続けていたら、あっというまにベテラン社員の仲間入りをしていた。気がつけば役付きで、部下を数人抱えている。

 四十を過ぎた頃から、若手社員が自分といると緊張して見えて、会社の休憩室を使うことに申し訳なさを感じるようになった。休み時間ぐらいリラックスして過ごしてほしい。なんならうっかり上司の悪口が出るぐらい気楽なお喋りをしていてほしい。彼らの邪魔にならないよう、弁当片手にしばらく空き会議室や近所の公園をさまよい、ようやく落ち着いたのが会社の屋上だった。いい感じに寂れていて、冬場は特に人が来ない。顔を合わせるのはみのりと、あともう一人ぐらいだ。

「うえーい、おつかれー。やばーい、外の空気がうまーい」

 綾香とみのりが昼食を食べ終わる頃、屋上常連組のもう一人が顔を出した。マーケティング部の島津圭子(しまづけいこ)だ。勢いよく扉を開けて屋上に出るなり、早足で隅の喫煙スペースに向かう。長身で姿勢が良く、さらにヒールの高い靴を好んで履く彼女はどこにいても目立っている。圭子が歩くたび、よく手入れのされたロングヘアーが淡い光をまとって左右に揺れる。

 圭子は喫煙スペースで加熱式タバコをふかし、一服終えるとコーヒーの缶を持って綾香たちの元へやってきた。

「なんか私たちが屋上で過ごしてるの、若手社員の中でお局会って呼ばれてるらしいよ」

「なんだとお」

「お局って呼ばれないように気をつかってこそこそ逃げてたのにー」

「昔はお局様って仕切り屋の怖い人ってイメージだったけど、今はシンプルにベテランの女性社員ならみんなお局って呼ばれるのかね?」

「いや、わかんないよ? 私たちだって実は若い人たちに威圧的だって思われてるのかもしれないよ?」

「綾香いっつもそれ気にしてるよね」

「すっごく気になる。指導のとき、この言い方はパワハラにならないかってめっちゃ緊張する」 

 身を縮ませる綾香に笑い、デザートの蜜柑を両手で揉んでいたみのりが口を開いた。

「ジェネレーションギャップを意識して、部下や若手に接するときに緊張する……って、健全だよ。緊張するから、これで伝わるかな、どうかなって相手の様子を見て工夫するわけじゃん。昔は伝わるかどうかなんて考えずに、とりあえずガツンと言ってやれ、みたいな雰囲気だったもんね。働く人に優しくなかった」

「みのりはもともと売り場のアルバイトだったんだよね? 店舗でもそんな感じ?」

「どこだってあの頃はそうだよー。あー……初出勤の日、女性はハイヒール履かないとダメって決まりがわかってなくて、普通の革靴で行ったら店長にめっちゃ怒られた。泣きながらヒール買いに行ったよ。なつかしい」

「あった! 女性社員だけ、なぜか五センチのヒールとベージュのストッキングを強制する謎ルール。私も面接のときに、五センチのヒールなんて人生で一回も履いたことないだろって男性社員に『ヒールを履くと背筋が伸びる。お客様へのマナーだから』とか言われてムカついたなあ。それならまずあなたが履いてくださいって思ったもん」

「圭子はハイヒールよく履いてるけど、ルールで履くのはいやなんだ?」

「自分が好きで履く靴と、強制されて履く靴は違うよ。強制されて履く窮屈な靴は、女性を人形にしたい誰かのままごとに付き合わされているみたいで、ゲロ吐きそう」

 圭子はひょいと片足を浮かせた。柔らかい光沢を放つ銀色のハイヒールが午後の日差しにきらめく。自分が好きで選ぶものと、強制されて選ばざるを得ないものは違う――。先日娘と交わした体毛に関するやりとりを思い出しながら、綾香はみのりに顔を向けた。