退院しない理由

井上さんの幻聴や妄想は長年悪化していない。性格も穏やかで、病棟のレクリエーションにも参加し、日がな一日テレビを眺めてすごす。

しかし、25年前の入院したてのころはまるで違ったという。当時すでに統合失調症と診断されて治療中ではあったが、「自分はもう治った」と突然思い立ち、薬を自分の判断で中断した。次第に独り言や空笑(5)が増えていき、「おまえを狙っている。殺されるぞ」という幻聴から母親に敵意を向け、激しい殴打で病院送りにする傷害事件を起こす。その結果、警察署に保護され、当院に措置入院(6)となる。不幸なことに母親はこのときの暴力で脳に障害が残ることとなった。

(写真提供:Photo AC)

そんな井上さんは薬の効果もあり、ゲームのモブキャラのように穏やかになった。妄想の影響もなく日常生活を送れるので、一見ふつうの中年男性に見える。

では、なぜ退院しないのか?

その理由は家族の拒絶(7)である。入院中の手続きで連絡窓口になっている妹と一度だけ面談したことがある。井上さんの現況を踏まえて私は提言した。

「病院ではずいぶん落ち着いてすごされています。自宅でも安定してすごせるかもしれません」

「あの人が母を殴った日のことが忘れられません。今は落ち着いているかもしれませんが、いつまた同じことをするかと思うと怖いんです。病院にいてくれれば、これまでどおりの援助はします」

妹さんの口ぶりから、何を言っても意見は変わらないという確固たる意志を感じた。

井上さんが病院送りにした母親は数年前に亡くなり、健在している家族は彼女だけ。母親と同居していた実家はすでに売却され、妹さんが受け入れを拒めば井上さんに帰る先はない。こうして、彼のカルテに登録されている住所欄には病院のアドレスが上書きされた。

「統合失調症の症状で暴力が出ていた」と医学的に説明されても、被害を受けた人は納得ができない。「病気だから仕方ない」と言われても、傷つけられたという事実は変わらない。それは相手が肉親であっても同じなのだ。

(5) 外的刺激や文脈に関係なく、唐突に笑う現象。幻聴や病的体験に反応していると考えられる。

(6) 精神障害のために自分を傷つけたり(自傷)、他人に危害を加えたり(他害)する恐れがあると判断された場合、本人の同意なしに都道府県知事の権限で強制的に入院させる制度。精神科医療でもっとも強制力が強い“ヘビーな”入院形態。三王子病院では月に3〜4名の患者が措置入院となる。

(7) 医学的には退院可能にもかかわらず、介護者不足や住居の問題、経済的理由など家庭の事情によって長期間病院にとどまり続ける状態を「社会的入院」という。精神科医療や高齢者医療において大きな問題になっている。しっかり数えたことはないが、わが院でも20〜30名ほどがこの状態にある。