行き場を失った人の最後の砦
家族の受け入れがなくても、自立した生活能力があれば、退院して一人暮らしをするという案もある。ただ25年間シャバに出ていない井上さんにとって院外で暮らす(8)のは現実的ではない。
スマートフォンはもちろん、インターネットすら彼は知らない。電車に乗ることもできないだろう。ワイヤレスイヤホンを見て、「なんで耳からうどん出してるんですか」と通行人に話しかけるかもしれない。彼にとって生きるだけでも困難が続くサバイバル生活が容易に想像される。
しかし、ここでは自動で三度の食事が提供され、つねに体調を気にかけてくれる白衣のマダムたちがそばにいて、隣のベッドには長らく病院で暮らす友だちもいる。最初「帰りたい」と言っていた患者もやがて居心地が良くなって退院を希望しなくなり、自ら入院継続を望むようになる。刑務所で長く服役した人(9)が、出所後の社会生活に適応できず、故意に再犯して服役したがるという話を聞くが、それと同じである。
井上さんの楽しみは、週に数回ある売店めぐりで菓子を購入することだ。妹さんも「家に戻ってくるよりはお金を出すほうがマシ」という思いなのであろう。お小遣い用に毎月入金してくれる。
皮肉なことに医療側からすれば、井上さんのように病院に住む患者は手がかからない。週に1回同じ会話をして薬を処方すればいいのだ。現場では「病院で飼う」という不謹慎な表現も出る。
精神科病院は、行き場を失った人の最後の砦でもある。
(8) 自宅以外に受け皿となる福祉施設もある。日記シリーズの先輩作品『障害者支援員もやもや日記』の舞台は、精神障害者がほぼ永年入所できるグループホームだ。ただ、こうした施設の数は圧倒的に足りていないし、問題行動がある患者はなかなか受け入れてもらえない。
(9) 映画「ショーシャンクの空に」では、約50年服役した老囚人が仮出所後に社会に馴染めず、自ら命を絶つ姿が描かれている。外の世界への解放は必ずしも救いとは限らない。
※本稿は、『精神科医おどおど日記――閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます』(発行:三五館シンシャ、発売:フォレスト出版)の一部を再編集したものです。
『精神科医おどおど日記——閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます』(著:駒木爽/発行:三五館シンシャ、発売:フォレスト出版)
――正常ってなんですか?
精神科救急病院で10年以上勤務している精神科医が語る、きれいごとでは片付かない医療現場のリアル。




