自分のために美味しいお茶を淹れられること
少女期終らむとしてうぶ毛濃き顔うちつけの西日にさらすかな
初期の歌から。初期の河野裕子さまの歌には、自分が自分を生きることの矜持、体温がありながらも、同時に自己を冷静にみている目があります。「うぶ毛濃き顔うちつけの西日」には少女期をただ美しいものと捉えるのではなく、その中であったであろうどうにもならない体験や、割り切れない出来事までも晒す熱さがあります。「うぶ毛」は、少女期のその、どうにもならない、割り切れない生臭さの象徴のよう。自分の少女の顔を描く時、ナルシシズムの強い作者であれば、実際には産毛があっても、つるんとした顔を描きたくなるもの。ですが「うぶ毛濃き顔をうちつけの西日にさらす」というのは、ときには見苦しい姿を見せても、その顔を晒して、生きてきたという矜持でもあります。
産むといふ血みどろの中ひとすぢに聴きすがりゐて蝉は冥かりき
家庭を得て、出産をうたった歌です。出産のその直後さえ歌にする、その性の晒し方には、普通ならついてまわるはずの、痛々しさがありません。それは、産むこと、女性であること、自分であることを主体が肯定しているからでしょう。「産むといふ血みどろの中」という強い表現にも、状況のおどろおどろしさというより、その中をくぐり抜けた主体の強さを感じます。その中、「ひとすぢ聴きすがりゐて蝉は冥かりき」という。わたくしめはもちろん出産経験がありませぬから実感は測りかねますが、この「蝉は冥かりき」はマイナスのニュアンスではなく、静かな、すがって聴きたくなるような、安らかに自身の心をとりもどす暗さとして聴こえているのでしょう。
夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温いよぬーと沼のやうだよ
こんな自由な表現も見逃したくありません。当時、ライバルとなる男性歌人がどんどんと作風を変えていく中、また男性歌人が西洋哲学や西洋文化を軸とした短歌を作っていく中で、日本語でしかあらわせないオノマトペや旧かな口語の独特の語り口調は、芳醇で魅力的です。河野裕子さまの歌にもありますが、これらの歌をたどっていくと、縄文時代の土偶の女性にまでたどり着くような、芳醇さと土の匂い、温かさと矜持を抱いた、自分を豊かな存在だと感じている女性のプライドが見えてきます。
そう、生産性や年収、価値なんて置いておいて、自分で自分を豊かに感じられること。これこそ生きる醍醐味でございましょう。スマホのような固いものは置いておいて、ちょっとソファーでティーブレイクでも。今回はお嬢様に淹れていただきましょうか。自分のため、自分に美味しいお茶を淹れられることは、大きな豊かさの証のですから。
今回ご紹介した歌人
河野裕子(かわの・ゆうこ)
1946年熊本県生まれ。京都女子大学在学中に角川短歌賞を受賞。72年、歌集『森のやうに獣のやうに』でデビュー、同年に歌人・細胞生物学者の永田和宏と結婚。斎藤茂吉短歌文学賞ほか多数受賞。2010年、乳がんのため逝去。
