対馬事件における対応
二つ目は、対馬事件における小栗の対応である。文久元年(1861)2月、ロシアのビリリョフ海軍大尉率いるポサドニック号が対馬の芋崎浦に不法上陸し、対馬藩主宗義和(そうよしより)に対して土地を租借させろと脅迫した(ロシア軍艦対馬占拠事件)。小栗は退去を迫ったが、ビリリョフは「上官でなければ応じない」とし、宗義和との面会を執拗に求める。
その後も両者は一向に引かなかった。通説ではこのようなシナリオだが、小栗は交渉の「全権」ではなく「見廻(みまわり)」であったため、あくまでも情報収集に徹したのである。外国奉行なのにどうして交渉してこなかったのかと勝海舟は批判したが、そもそも小栗の派遣は交渉ではなく「見廻」が主であるため、批判は妥当とはいえない。小栗は一週間ほどの滞在で対馬を去ったが、この「見廻」によって解決法を見出した。
小栗はビリリョフから、上官であるリハチョフを交渉相手とする海軍の命令系統を踏まえた交渉と、箱館(函館の旧表記)にいるロシア領事ゴシケーヴィチとの外交ルートによる交渉によって解決が可能であることを聞き出したのである。
箱館では既に箱館奉行村垣範正との交渉が始まっていたが、小栗の「見廻」によって、日本側は退去をいっそう強く求めた。リハチョフは沿海州にいたが、箱館奉行所が亀田丸を派遣し、表向きは貿易調査であったが沿海州総督カザケーヴィチと面会しており、小栗の先見性がうかがえる「見廻」であった。