パナマ経由でワシントンへ

一方、使節団の本隊は汽車でパナマ地峡を越え、再びロアノーク号に乗船し、ワシントンへ向かった。1860年5月14日(万延元年閏3月24日)正午、一行は軍楽隊の演奏と礼砲が鳴る中、4、5千人もの群衆に迎えられた。一行は5月17日、ブキャナン大統領に謁見して批准書を手渡し、5月22日にルイス・カス国務長官と日米修好通商条約の交換を行い、その後も様々な公式行事や晩餐会に出席した。ワシントンでのカルチャーショックの一つは、町はずれに捨ててあった鉄くずを目の当たりにしたことである。日本では鉄は極めて貴重であった。江戸時代は、基本的に何でもリサイクルするため、ゴミというものがなく、環境保全に優れた時代でもあった。

従者の福島恵三郎はアメリカ人が使節を歓迎する理由を三つ挙げ、一つは日本人の初めての航海を祝う、二つは西洋諸国に先立ってアメリカを先に訪れたこと、三つがイギリスなど他国に対して「これほど手厚く歓迎しているのだ」と見せびらかしたいがため、このような振る舞いをしているのだ(「花旗航海日誌」)としている。なお、1はすでに天正遣欧使節団や慶長遣欧使節団による航海の経験があるため、アメリカ人の歴史認識として妥当とは言えない。2と3についても、アメリカが対日交渉を他国よりも有利にする目的があり、この使節団を計画したものと見られる。

(写真提供:Photo AC)

5月22日にいち早くワシントン海軍造船所に向かった佐藤秀長は「船舶製造より船具一切及び熕ほう(「ほう」は、石へんに駁)弾丸の類を製造せり。数か所に蒸気機関を設けたり、其奇妙術枚挙成し難し」(「米行日記」)と記している。佐藤の印象では、造船所なのに船よりも船の道具や大砲・弾丸を製造していたことに驚いたようである。同日、小栗の従者木村鉄太もワシントン海軍造船所を訪れ、「凡(およ)ソ海軍ニ関ル所ノ者ハ、悉ク此ノ中ニ具(そな)フ。中ン就ク最モ京観ナル者ハ、作院ノ蒸気機関ナリ」(「航米記」)と記し、その時の様子を絵にして残している。

さらに同日、佐藤藤七もワシントン海軍造船所を訪れ、「色々のものを制作するを見る大炮の筒を穿ち玉を作り、銅鉄の板を延し、大鉄を鍛い、大鉄を斬り、釘を造り、碇を作る等皆人力を用いず蒸気の力を借り其の奇功言語に尽しがたく筆紙に述べがたし」(「渡海日記」)と記している。各々、おおむね同じものを見、同じように衝撃を受けている様子がうかがえる。