愛犬のハリー(撮影:村井理子さん)

あれが何を意味するのかわからなかったが、気に病んでいる様子の彼女が少し気の毒になって、「とにかく、気にしないで下さい。なにも聞こえなかったので」と、これ以上無理なほどドライに、きっぱりと返して、視線をすぐに本に戻した。彼女はぶつぶつとなにやら言いつつ、ゆっくり、ゆっくりと、私のベッドのパイプを右手で握りながら廊下に移動していた。もうほとんど廊下だというところで一旦止まり、何度も何度も、「はぁ~」とため息をついた。痩せた右手は、最後までパイプを握りしめたままだった。

彼女(と痩せた右手)が消えて10分ぐらいした時だろうか、ナースステーションから早足でやってきた看護師さんが、「村井さん、個室のご用意できましたので、移動していただけますよ!」と声をかけてくれた。私は一気にテンションを上げた。体調も回復傾向だし、個室も獲得したし、もうこれで大丈夫だ。さようなら、ベテランよ。もう二度と同じ部屋になることはないだろうし、会うこともないだろう。アディオス、たった一夜の隣人さん、どうぞあなたもお元気で。

私は急いで荷物を片付けると、今か今かと8時を待ち、8時になった瞬間に、スキップせんばかりの勢いでナースステーションに行き、鼻歌交じりに個室へと移動した。落ちくぼんだ小さな目でじっと見つめてくるベテランには声をかけることもしなかった。それがあとあと、厄介なことになるとも想像できずに……。