私以外の世界のすべてはいつも通り動いている
無事個室に移動することができた私は、早速、夫に連絡を入れた。
iPadとBluetoothキーボード、iPhoneは緊急入院時に持ち込んでいたが、ノートパソコンは家に置いたままだった。さすがの私も、そこまで準備をすることができなかった。ほとんどのことはiPadで事足りると考えていたし、まさかしばらく退院できないような状況に陥るとは、予想もしていなかったからだ。しかし、大部屋を出て個室に移動した途端に気が変わった。ここであれば落ちついて考えをまとめることが出来る。誰にも迷惑をかけずに、必要な作業をこなすことができる。そしてなにより、医師が説明してくれた「弁膜症」という病気が、一体どのような疾患であるのかを調べ、そしてこの先の計画を立てることができる(私は勝てるのか、それとも……)。やはりパソコンがないと話にならないと、鼻息荒く考えていた。
いきなり元気になって戦闘モードに入ってしまった私は、すでに仕事モードまで発動させていた。入院前から気にかかっていた、翻訳作業中の書籍が一冊あったのだ(私は一応翻訳家です)。半分以上は訳すことが出来ていたが、締め切りはとうに過ぎていた。夫に、できるだけ早くパソコンを持ってきてくれるようメールで頼んだ。「本当に申し訳ないけど、今日中に持ってきて下さい」と、何度も書いた。とりあえず入院はできた。突然死ぬことはたぶんないだろう。だからこそ、現在進行中の仕事をどうにかしなくてはいけないと焦って、キーボードを打つ速度がどんどん早くなった。
編集者たちの困った顔が次々と浮かんでは消えた。原稿を書かなくては、そして一刻も早く、作業途中の一冊を終わらせなければ、彼らに迷惑をかけてしまう。個室のなかを見回し、LANケーブルの差し込み口が壁にあるのを発見したが、使いものになりそうになかった。大急ぎでWi-Fiルータのレンタルを申し込んだ。自分でもびっくりするほどの早業ですべての準備を整えた。そしてようやく、一息つくことができたのだった。