(取材・構成:朝山実)
文学味のしないもので文学を書く
長嶋 十何年もやっていると書くことがなくなってくるんですよ、率直に言って(笑)。自分が私小説的に経験してきた親子のことや離婚のこととかはすでに使い切っているし、私小説でなくても、学生時代の景色とか就職していたときのムードとか、「具」に使えそうなものは惜しまずぶっこんできたから、気付いたら冷蔵庫の中に「文学味」のする具がなくなっている。(笑)
そうなったとき、開き直って、文学とみなされていないようなこと「だけで書く」ということが、文学性を生むのではないか。そう考えたのが今回の長編小説です。
――あえての「だけで」というのがポイントなんですね。近年の長嶋さんは、クルマの移動中だけのやりとりを描いた『愛のようだ』や、ゴシップと訃報だけの『もう生まれたくない』。更に遡れば『三の隣は五号室』はアパートの一室だけを舞台にするなど、近年はとくに意表をついた作品を発表されています。
長嶋 何を書くかということは「何を書かないか」を決めることでもある。具材を使い果たし、ネタ探しに汲々としているという自虐的な気持ちとはべつに、常に前に書いていないことを書こうと思ってやってきたなかでだんだんそうなっていったのでもある。
前作について言うと、ゴシップというものに文学はないとみんな思っている気がするんですよ。ワイドショー的なもの、あそこでコメンテーターがもっともらしく言う言葉は偽物で、文学っていうのはそういうところではない、別のところで語られるものだというような考え方が世にはある気がして。
でも、それにしてはオレ、ワイドショー見るなと。というか好きだなあと。だれそれが離婚したとか熱愛発覚とか大好きだし、そういうのが好きで興味を持っている自分というもの、あるいは世間というもの、そこには文学がないというのは嘘なんじゃないか――。そう思って、ゴシップだけで書いてみたんです。
――さらに「訃報」が加わることで滑稽味と深みが醸し出たのが前作で、今回はさらにそれをきわめることになっていますよね。冒頭から、40代の主人公の星子(ほしこ)と友人で50代の志保が、スーパー銭湯でまったりしている。
長嶋 レジャーの時間も文学的じゃない。ただの余暇――仕事や恋愛みたいに、真摯に考えを深めざるをえない瞬間ではない。もちろんどんなシリアスな小説でも、人間の日常や生きるということを描いたらレジャーをする瞬間も出てくるわけだけれど、そんなときでも作中の人はレジャーに埋没せず文学的なことを考えていたりするわけですよ。
イチゴ狩りをしていてイチゴおいしそうだなって思っていても、そんなシーンは省き、内心の心理描写は別に描くと思うんです。そうじゃなくてレジャーをレジャーだけで書く。うまくいくかどうかはともかく、そうやってスケッチしていったらこれも文学だった、となる気がして。